このごろようやく、人称代名詞「she/her」を引き受けてもかまわないと思いはじめた。きっかけは定かでないけれど、たぶん襟足を刈り上げたあとから。
私は、人生の大部分において、自身のジェンダーアイデンティティを決めかねていた。小学生のころにはすでに、「女子」と呼ばれると居心地が悪かった。とはいえ、たしかに戸籍と身体は女性で、断言できるのは「男性になりたいわけではない」ということひとつだった。
自身のありようというものは、鏡を覗き込んだところで見えるはずもなく、他人とのかかわりから捉えるほかない。周囲への関心が稀薄だった私は、バイセクシャルであることを自覚するのも遅かった(初恋は仲間由紀恵だった。恋であったと気づくのに十年以上を要した)。
半生を顧みれば、淡い憧れを抱いた相手はみな歳上の女性(に見える人)だったが、それ以上の深い仲になりたいとは願ってもみなかった。ただ自然にそうであったと、「好きになった女性はいない」と当時は認識していたけれど、あるいは、典型的な異性カップル像とともにあきらめを脳裏に刷り込んで、女性と交際する可能性に目もくれなかっただけかもしれない。
大学生になって、ノンバイナリーやXジェンダーといった概念に会った。しかし私自身は、このように名乗る資格がないと感じた。私はバイセクシャルであってパンセクシャルではないのだから。つまり、周囲の人を、最初の印象に従って男性/女性と判断した上で、好きになったりならなかったりする(むろん、本人から申告がないかぎり、性別に言及することは避けるが)。
内心では他人を二元論にもとづいて区分しながら、ひとりそこから逃れようとするのは、大いなる矛盾ではないか。「おねえさん(とこちらが一方的に見なした人)がタイプ」と「私が女性であると決めつけないでほしい」とを同じ口から発する気になど、とてもなれなかった。
そういうわけで、私は、きわめて消極的に女性を自認しながら四半世紀あまりをやりすごした。「女性であることそのものではなく、ジェンダーロールやステレオタイプ、不必要な場面で個人情報を特定・収集する制度や態度に違和感を抱いているのではないか?」と、くりかえしみずからに問いなおした。「それだけではない」というのが私の答えだった。「女性」「彼女」と名ざされるたび、やはりどこか居心地が悪かった。そうはいっても、「代わりにこう呼んでほしい」と差し出す呼称も、その根拠さえも定まらないのだから、どうしようもない。
転機のひとつは散髪だった。冒頭に書いたとおり、二六歳の夏、はじめて襟足を刈り上げた。これまでのどんな髪型より似合っている。やわらかな芝生みたいに無防備な首のあたりを、逆立てたり撫でつけたりして楽しんだ。
刈り上げは友人にも母にも絶賛された。私の好きな私は、私の好きな人たちにも好かれたのだった。ところで、交際相手(地球上で唯一愛する男)は、私がどんな髪型をしてもほめる。いつもみたいにほめられた。私は彼の艶やかな長髪が気に入っている。
髪を切った私は、「女のまま、ここまで身軽になれる」という意外で単純な発見に高揚していた。かつて私を疲労と倦怠のなかに閉じ込めてきたものは、周囲のまなざしばかりではなく、女である私の顔、からだ、声、におい──水と肉を思わせる実存、それらをしんから愛することのできない私自身のまなざしでもあった。
私は女体が好きで、女体の私が好きだ。この宣言と、お仕着せの規範に抗う姿勢は両立する。私は私の好きに装いふるまう私が好きなのだ。