ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

プロトコル

 パートナーと一致することが望ましい条件のうち、どうやら私がもっとも重視しているらしいものは、価値観でも性格でもなく、通信プロトコルだ。プロトコルの一致はあくまで対等な関係を築くための必要条件であり、十分条件たりえないけれど。

 私と最愛の宇宙人が遵守するプロトコルとして、すぐに思いつくのは次の三点だ。(書面や口頭にて約束した記憶はない。いつからか、ふたりのあいだに図らずも確立され、ことさら意識もせず互いに期待しているにすぎない。周囲を見渡してみれば、グローバルなルールとはいいがたいようだ。)

 ひとつめ。考えや望みをためらわず口にすること。ふたつめ。「なぜ?」および「わからない」を発したり受け取ったりするとき、軽快かつ真摯であること。みっつめ。狂言や無視をもって意思表示に代えないこと。

 つまり、私にとっては、ことばがほとんどすべてなのである。私には他人の心の機微が読み取れない。思考や感情の断片を言語化する能力が高い(と評される)のは、そうでなければ社会生活を営むことができなかったからだ。幼いころから、ことばだけが私のよすがだった。察しの悪さと共感能力の欠如、セクシュアリティや家族観といった暗黙の前提からの疎外、これらのディスアドバンテージを補って他人と交わるためには、ことばを尽くすほかない。

 彼もまた、一意的で直截な表現を好む。無言の抗議や仄めかしは無用だ。ただし、彼の語彙や話しぶりには、これといって特徴的な点はない(ないことはないが、ここで取り上げるべき主題ではない)。私たちのプロトコルは、要点を簡潔に述べるとか、「はい/いいえ」を最初に明示するとかいった、形式のみに関する規定とは異なる。

 私は彼ではなく、彼は私ではない。ゆえに「言わなければ伝わらない」と、私たちは身をもって知っている。そのうえ、言ったところで伝わるともかぎらない。だから、たずねあって、見えざる皮膚の内側を確かめる。互いを知りたくて、ことばを交わす。彼は「率直さと思慮深さは矛盾しない」と私に教えた友人のうちのひとりでもある。それから、率直であることと甘美であることも、また矛盾しない。

 私のさいわいを、すこやかなることを、私が私であることを祈る人は、ありがたいことに彼ひとりではない。むろん、私のほうから、そのように願ってやまない相手も。けれど、私が無礼を働いたとき「いやだ」「やめてほしい」と即座に抗議してくれる人となると、自信がもてない。彼だけかもしれない。その点においても彼は特別だ。

 私たちは互いを傷つけたくない。とはいえ、いかなるときも決して傷つけないなどと、いいきれるはずがない。それでも交わりたい私たちが準拠し信じるものは、「この人は私が間違いを犯したら怒ってくれる」「この人は、好きなことと同じように、きらいなこともひらいて見せてくれる」という感覚だ──ひたすら歳月をともに過ごすばかりでは実らない、意志によって育みつづける心安さだ。

 私は彼を愛しているが、人を愛することは、愛した人に喜びをもたらすことを必ずしも意味しない。私は愛する人に喜びをもたらしたい。そのためには、なにを考え、望むのか、知りつづけねばならない。プロトコルの一致を重んじるのはそういうわけである。知ろうとすることが愛なのではないかとも思う。