口座の残高が暗証番号の四桁を下回った。某オンライン決済サービスのアカウントが不正利用されたのだ。当然ながら返金は約束されたが、一時的にとはいえ大変な不便を強いられ、吹けば飛ぶようなわが暮らしのありさまを見せつけられ、底知れぬ不安に苛まれた日々のことはきっと忘れない。
私は貧乏をしている。困窮しているというほどのことはない。私にはおろしたての開襟シャツがあり、種々のサブスクリプションサービスがあり、行きつけのカフェがあり、敬愛する友人に酔態を晒す夜がある。しかし私は貧乏をしている。ひとり暮らしをはじめて以来、ライブハウスにも劇場にも足を踏み入れていない。途中下車さえしない。大学院、グランドピアノ、保護猫との暮らし、かつて憧れたものたちに心を寄せる習癖をも、忘れつつある。
私は楽器と小説に囲まれて育った。特権的な環境に置かれているという自覚もなく、家事もアルバイトもせず試験勉強に専心し、よりによって──そして嬉々として──文学部に進んでしまった。十代の取り組みは収入や地位の向上には寄与しなかったが、両親は「それがなんの役に立つの?」などとは決して口にしなかった。
子どもの私は、なくても生きてゆけるものばかり愛することができた。この原体験が、<生まれてしまったからには生きてゆかねばならない>という事実の引き受けを、現在にいたるまでかろうじて可能にしている。私の人生は大学からはじまった。
現在の私は、なくても生きてゆけるものを切り捨てることで、採算を取っている。なくても生きてゆけるのだから。それならば、貧乏をしているという不愉快な自覚は、意識の外に追いやるのが得策なのではないか? お金のことを考えずにすむ生活をほしがるくせに、「お金がない」という事実でもって頭を占めようとするのは矛盾した態度ではないか?
そうではない。私は貧乏をしているといわずにはいられない。ここにとどまるつもりは毛頭ないからだ。私は貧乏をぬけだし、なくても生きてゆけるものを愛しぬく暮らしを、再び手にしてしかるべきである。私は持たざるものを思い、苦しむ。これは最後の矜持だ。望みを捨てた先にある凪より、蒼ざめ、怒り、焦がれるほうを選ぶ。欠乏が、孤独が、思慕が、身の程知らずの欲望が、私の足を前に進めてきた。
身の程も身の丈も、足るを知るというのも、みずからに言い聞かせるためだけにある方便だ。ままならぬ憂世をやり過ごすべく、自身の内部にのみ打ち立てうる原則だ。他人に差し向けることがあってはならない。人間を飼い犬たらしめるのにこれほど都合のよろしい理屈はない。私の望む暮らしは、贅沢などではない。