ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

 私が喫煙者なら煙草を吸いに出ていたところだ、と思う瞬間が今週は何度かあった。職場で苛立ちを覚えてしまうことが多かった。なぜ煙草を想像したかはわからない──吸えない、そして吸いたくない理由に事欠かないというのに。夜更けに見たベーシストの写真が脳裏に焼きついていたのかもしれない。

 私は腹を立てていた。謝罪の体をなさない謝罪を聞かされたときに。私の書いた文章を、外部のデザイナーがなんの断りもなく書き換えたときに。怒りを表明することによって全体の利益や自身の矜持が守られる場合もあるけれど、それには当てはまらないと判断した。だから、静かに腹を立てながら、腹を立てるのをやめたいと考えてもいた。

 怒りの感情とともに、からだの使いかたの癖を自覚した。神経を昂らせながらも話しつづけねばならないとき、声が思わず大きくなるのではなく、低くなること。それは(私の場合)周囲を威圧しないための抑制というより、いかなるときも冷静で理知的であるかのように見せかけたいという虚栄心に起因するらしいということ。待たされるより急かされるほうが、はるかに耐えがたいということ。

 昼寝のために置いてあるビーズクッションを抱えて揉んでみても、私は依然として不機嫌だった。「人はやわらかいものに触りながら怒れない」というわが仮説は、私自身によって否定された。無関係の同僚に棘を撒き散らす前に、席を立って、裏の公園に逃れた。

 よどんだ息を吐ききって胴をへこませ、青臭い大気を吸い込んで肺を満たした。煙草ではないが、吐いて、吸って、吐いた。まとわりつく湿気を脱ぎ捨て、新しいのを羽織った。内と外にあるものの交換を試みた。そうして思考の代謝を促した。

 喫煙に相当するといってさしつかえない、私なりの小規模で儀式めいた習慣といえば、散歩とコーヒーだ。このふたつを私は、運動と喫食ではなく、呼吸のバリエーションのようなものととらえている。

 人肌は、生きているかぎり、ほのかににおう。私はしばしば、見えざる煙が皮膚から立ちのぼるところを想像する。気が塞ぐときには、その煙に埃と古い油が混じったかのような厭わしさと重苦しさを感じて、たまらず歩きだす。喉につかえているなにもかもを、風と汗に溶かして流す。出かけた先で、コーヒーを深く嗅ぐ。どちらかといえば苦いのが好みだ。肩と背中のゆるみきった心地がしたら、ふたたび歩きだす。帰るころには、部分的に脱皮した私になっている。