ブログやTwitterをつづけることができるのは一種の才能だ。なにかしらテーマを設定しているならまだしも、たんなる日記やつぶやきをひたすらインターネットの濁流に放すという行為は、意義を見出さない人からすれば狂気の沙汰ではないか。もっとも、趣味というものは、すべてがそのようであるに違いないけれど。当ブログを読み返すたび、みずからの枯れない情熱に呆れる。
ブログやTwitterの生きたユーザーでありつづけるためには、おそらく以下の条件を満たす必要がある。類い稀なる──かどうかは定かでないが、才能と呼んでさしつかえない。
- 自我がすさまじく回転していること。そうでないと、ことばを絶えず産むことはできない
- 産みだしたことばを他人に読ませたい/読まれてもかまわないと思っていること
- 産みだしたことばをプラットフォームに残したい/残ってもかまわないと思っていること
私の場合、ブログにはおもしろく親しみつづけているけれど、Twitterの使いかたはうまくない。手軽さが特徴のプラットフォームだというのに、どうにも身動きが取りにくい。短文を入力している途中で「公開や保存には値しないな」と踏みとどまってしまうのだ。誤字を訂正できないことにも重圧と緊張を感じる。少し前まで、思うことと言うこととの距離はこんなに長くなかった気もする。
不向きなTwitterをやめないのは、そこでしか会えない人々を好いてしまったから。友人のつぶやきを読むのは好きだ。一枚の写真、さびしさとなぐさめ、なんの話題かわからないがとにかく楽しそうなようす、悪態、とある漫画への愛と批判と葛藤、だらしない生活態度、薄暗い悦び、思慮と思慕、明日への宿題。
多弁な友人よろしく身軽になりたいのに、指先の赴くままに生活のしみをこぼしたところで、気が済んだら拭き取るみたいに削除してしまう。持ち物を捨てられないことに悩む人の話ならよく聞くが、私はたくさん持っていることに耐えられないほうだ。
とはいえ、見たもの、思いつき、人のことばを、書きとめなかったためにすっかり忘れてしまうのはあまりにも惜しい。どこに残したらよいのかな? けっきょくのところ、ここがからだになじんでいるのかな。
このごろ私に起こった、なんでもないこと。川沿いにつばめが飛び交っていたこと、速く低く短く、筋肉の塊だと直感したこと。声が好きなギタリストのラジオ番組がはじまったこと、最初に紹介された「お便り」がファンによる捏造だったこと、それを知った翌週から聴けなくなってしまったこと。呉服店の店先に「753」と書かれたのぼり旗が立っていたこと、しばらく意味がのみこめず、「七五三だ」と解読して目を疑ったこと。Twitterのタイムラインに「ほんとうに良い」というつぶやきがふたつ並んでいたこと、投稿者どうしは面識がないこと、ひらがなにひらくやりかたの一致に感動したこと。