ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

人間観察

 「人間観察が趣味」と話す美容師の施術を受けた妹が、その発言に「ドン引きした」といったような内容のメッセージを送ってきた日、私は奇妙な安堵を覚えた。ああ、人間観察は歓迎される趣味じゃないんだな。そう感じるのは私だけじゃないんだな。

 妹が「人間観察が趣味」発言に嫌悪感を示したのは意外だった。妹は私にまったく似ていない。快活で社交的で、ジャパニーズ・トラディショナル・大企業を半年でやめたりしない。つまり、価値観を異にする多数の他人たちとの摩擦を余儀なくされる生活に、強い不満を抱いているようすがないのだ。たいていの無礼には、即座に抗議するか、内心でそいつを始末することで対処できるらしい。まぶしいね。

 そんな寛大なる(寛大ではないかも、でも好き!)妹にさえ、「人間観察が趣味の人もいるよね」と受け入れられることはなかった人間観察。趣味として公言するのはリスキーみたいだ。もちろん私だって、人間観察が趣味だという人間には近寄りたくない。それにしても、他人からこの感覚を積極的に肯定されたことには驚いた。私の殻がかたいだけだろうと思っていたから。「ひららか」じゃなかったら、Twitterのユーザーネームは「パーソナルスペースひろし」にするつもりだった。

 人間観察を趣味とすることそれ自体は、まったくもって個人の自由である。問題は、それを他人に聞かせてはばからない態度にある。私がそう考える根拠はふたつだ。ひとつめ──観察の対象にみずからの存在を知らせるなど、三流以下の観察者がすることだ。ふたつめ──観察という行為の孕む暴力性に、無自覚な姿勢がよろしくない。おめでたきデリカシーの欠如。

 仮定の話をしよう。たったいちどの「趣味は人間観察です」という告白が、瞬時に私の一挙手一投足を変質させるだろう。硬直。警戒。過去に交わした視線さえ、その意味を書き換えられてしまうだろう。まどろみや忘我のときをその人と分かちあう機会は、永遠に失われるだろう。

 あるいは、その一瞬のきらめきのために──観察者の視線に晒されていることを自覚した人間のふるまいがどう変わるか確かめたいがために──観察者は素性を明かすのだろうか? だとしたら、その切り札は別れ際まで取っておいて、あとは二度と会わないでいただきたい。

 件の美容師よりは、妹のほうがよほど周囲のささいな変化に敏感なのではないか。なぜって、それなりの観察眼を持っていたなら、客の不興を買う失言をしたことに気づけたはずでしょう。いまの、どう思われたと思う? 未熟な観察者は、被・観察者としても鈍感なのだ。まなざしはインタラクションにほかならないというのに。

 妹は人をよく見ている。その点も私に似ていない。同じ家に住んでいたころは、畏敬の念すら抱いていたものだ。妹にじろじろ見られたことはない。じっと見られた記憶すらない。家の人を一瞥して、髪型や化粧、そして体調の変化にも気づく(としか私には思われないのだ)。

 観察の結果を本人に報告したりしなかったりするのが、妹の流儀らしい。私をほめるときも、私の心配をするときも、妹の話し相手になるのは、たいてい私自身ではなく母だ。そうする理由はわからないけれど、私には妹のやりかたが心安くて好ましい。妹はまなざしによって他人をとらえ、しかしまなざしによって他人を動かそうとはしない。妹が周囲に向けるまなざしは、好奇とも窃視とも品評とも違う。

 人間観察の鉄則は、「観察されているかもしれない」という疑念を対象者にもたらさないことだ。観察されるものの居心地の悪さを知ることだ。書くのが好きで、そればかりか書いたものを他人に読ませてはばからない私こそ、デリカシーが欠如しているに違いないけれど。