ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

こぼれたミルク

 不随意にして不可逆であるという点において、誕生および生存は、前触れなく眼前に注がれた一杯のコーヒーに似ている。

 私にはそれを注文した覚えがない。かといって、すでに供されたものを、あえて残したり捨てたりするのも本意ではない。他人に口をつけられたり、取り上げられたりするとしたら、もっと不愉快だ。飲み干すほかないということだけが動かしがたい事実であるなら、おもしろく味わうのが合理的な方法だろうと判断し、そのようにつとめる。けれど、どれほど深く湯気を吸いこみ、口に含んだところで、当惑がほどけることはない。不可解はのみこめない。なぜ、私にそれが与えられたのか。

 私は弱い人間だから、「人間は生まれてこないほうがよろしかったのではないか」と幼少期からつねに疑っており、そのくせこのしぐさを脱ぎ捨ててしまいたいと願ってもいる。すでに生まれてしまった人間は死ぬべきであるとも、人間は産むことをやめるべきであるとも考えていないからだ。生まれてしまったからには、生まれてきてよかったと感じながら生きて死にたい。産みたがる人に対しては、ぜひともその望みが叶ってほしい、のひとことにつきる。

 人道に対する罪が犯され、無数の人々が血を流し、命を落とした。私は、なんというべきか、なにをいってよいのか、わからない。あきらめにとらわれてしまった。憤りを失望が塗りつぶしてしまった。力をもって力を制するほかに術はないのか? 私の信じた理想は、夢想あるいは妄想にすぎなかったのか?

 恐ろしく大きな流れに身を投げるのが、生きるということなのか? そうだとしたら、私たちはなぜ、いまここにあるのか。私である必要がどこにあるのか。私があることは必然なのか。生まれてからおそらく死ぬまで、生きてゆくことと、希望を抱くことやみずから選択することとが、いまにもばらばらに裂けそうな災害と事件のくりかえしだ。

 先月にはじまったことではない。あたたかな部屋に閉じこもっているのに、なにかずっと悲しく、恥ずかしい。ここにありながら、ここにありつづけるのが正しいことなのか、わからない。私の悲しみがなんになるのか、私が悲しがってかまわないのか、わからない。

 力も知ももたざる私はしかし、ことばをもって、最悪の状況を最悪であると断ずる気力だけは、ただちに取り戻さねばなるまい。それさえ怠るのは、平生より忌み嫌う「置かれた場所で咲きなさい」「身の丈に合わせて」にもひとしい、唾棄すべき態度ではないか。あってはならないことにただ「あってはならない」と告げる最後の勇気をも失ってしまえば、事態はいっそう悪いほうへ、もつれこんでゆくばかりだろう。