ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

 このごろ、スキニーパンツを穿かなくなり、スラックスを好んで着用している。「この二本の筒をたくし上げたその奥に、重量と湿度をもった生身の脚が脈打っている」という事実を、直線的なシルエットによって巧妙に蔽い隠してくれるから、心安い。スラックスは、からだのあることを忘れさせてくれる。

 からだがきらいだったり好きだったりする。植物か、大理石か、水槽の脳になりたい日がしばしばある。みずからの髪や頬のやわらかいことを、こころのうちに讃える日もままある。いずれにせよ、からだというものを忘れる瞬間は、めずらしい。耳や鼻が利くせいだろうか。心身が丈夫とはいいがたいせいだろうか。私という主人の意向に沿うことなく生殖の準備にいそしみ、徒労に終わっては枯れた血を流す臓器を腹に抱えているせいだろうか。

 冬が好きなのも、暑いのがだめだから。暑さは、私のからだをとらえ、私をからだにとらえる。この国は、冬を除いては、耐えがたいほどあたたかくしめっている。たえず皮脂と体臭を分泌する動物であること、そのようにありつづけるほかないことを、大気が皮膚に教え込む。

 からだがあってよかったと感じる(正しくは、あとになってそのように思い返す)のは、からだというものを忘れているときだけだ。没入と忘我の体験。すぐにそれがほしいとき、私は自室の窓辺に寄り、電子ピアノの正面に腰かける。

 指をどのていど立てるか、寝かせるか。指先のどのあたりを鍵盤に触れさせるか。跳躍の高さと速さはどうするか。力の強さと抜きかたは。鍵盤の上に指を保持する時間の長さは。私はいっさい考えない。指が知っている。覚えている。私は指を動かそうとせずに、私の指が動いている。私はからだに従い、からだを従える。

 私は私であり、私があること、またそこから決して逃れることはできない(死によって私がなくなることはあっても、私でなくなることはない)という事実と──四半世紀も生きながらえながら──いまだに折りあいをつけていない。自身の肉体を、拒絶あるいは忌避しているというほどではなく、ただ、ふと、はてなき疲労と倦怠に囚われるのだ。

 しかし、私が私でしかあれないのならばなおのこと、私は私をなるたけ快く生きてゆこうとするのが合理的な態度であり、それを実践するためには正反対と見せかけながら重なりあう二本の道を蛇行してゆくことができる。

 ひとつは、私にしか産みだせないものを産みだすこと。書くことはその最たるものだ。ゆえに苦痛と愉悦にみちみちている。もうひとつは、私をめいっぱい使い、私を忘れること。鍵盤をまさぐり、楽器になった私の指は、私であることを忘れ、そうしてはじめて、私があることを祝福する。