ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

手取り16万日記

※『検閲前夜のひらログ』に掲載した記事と同じ内容です。もともとこちらに書きたかったのですが、ブログの使い分けを間違えました。

 

 手取り16万円台・賞与なし・昇給の見込みなしのひとり暮らしをつづけた感想は「暮らしてゆくのに困ることはない。それ以上のなにものでもない。来週は心配ない。来月もなんとかなる。来年以降のことを考えると、不満と不安で胸がつぶれそうになる」ってところ。

 家賃や公共料金、通信費が払えないなんてことはありえない。通院は欠かさないし、美容院にも行ける。外食も、トーストとコーヒーを含めて週に三度くらいする。好みの日用品や家電を少しずつそろえている。友人や恋人に会える日は、自分なりの贅沢を楽しむ。ここに書いたこと、ぜんぶしたら赤字だけどね。

 16万円ちょっとあったら生活ができる。それだけ。それだけだ。貯蓄のペースを上げたい? 長期の旅行? 事故に遭ったら? 習いごと? 母や実家の猫になにかあったら? ──考えるな。考えたってどうしようもないから。なんか、そんな感じ。その日の暮らしには困らないが、視界はいっこうにひらけない。いつまでこんなふうでいるの、としかおもわれない。

 私は大学院に進学したい。グランドピアノを自宅に置きたい。保護猫を迎えたい。これらは手取り16万円台の身からすれば、いずれも過ぎた願いなのだ。子どもはほしくないけれど、ほしくてもあきらめるほかないでしょう。なくても生きてゆけるが、なくしたらなぜ生きてゆくのかわからなくなるものたち。なぜ生きるのか。少なくとも、働くためというつもりはまったくない。

 お金がないと、お金がかからないほうを選ぶようになる。安いものを買うだけならまだしも、どこかに行くとかなにかを食べるとか、すっぱりやめてしまう。カフェ、入らないでおこう。入場料って高いな。受験料も高いな。電車に乗るだけで500円か。本、きょうじゃなくていいや。家と職場の往復が生活を占めだす。ほかには、ときどき駅前、以上。

 お金がない、かつ手に入る見込みもない状況が継続すると、あきらめることを覚えて、欲求それ自体が稀薄になる。自身の肉体や、将来という概念さえ、現実感をうしなう。ウィッシュリストとかライフプランとか、つくったところで叶わないし。一生このまんまなら、未来とかないほうがずっといいし。あってもコストがかかるだけだし。いちばんよろしくないことには、自尊心が損なわれる──これがあくせく働いて得られる報酬か。これが私のする仕事の価値か。これが私の抱いてもよい希望の上限か。そのうち、勝手に引け目を感じてともだちに会わなくなりそうで、そんなのいやだ。ファック・身の丈とふ呪い。

 貧乏(とあえて書こう)を知ってよかったと、おもわないでもない。実家がわりと裕福だったから。もちろん、想像力という名の知性を備えた人なら、身をもって経験しなくたってかまわない。ただ私には必要だった。貧乏をしなかったら、「学び働けば報われる(=報われない人は学び働かないからだ)」と信じきったまま死んでゆくに違いない。恥ずかしさで息がつまる。それはそれとして、はやくぬけだしたいのは、たしかだ。

 おもわしくない状況に置かれたとき、それが永続するかのように思いなし、絶望に身を沈めようとするのは、わが思考の悪癖にほかならない。手取り16万円台は、キャリアとしては新卒同然にもかかわらず歳だけを重ねた(そこまでいう?)秒でやめ太郎の初任給としては妥当だ。これからもっと稼げるんだったら、嘆くほどの少額ではないよね。どうやってもっと稼ぐ? まず勤め先を変えないとね。

 一生このままって決めつけるのは不毛って、わかっている。でも、よくないときに、「これからよくなる」って、どうしておもえるの? しかも、いまだって、やれるだけのことをやっているのに、暮らし向きが楽にならないのは事実だ。それなのに、「これからよくなる」って、どうしておもえるの?

 これからお金に不自由しなくなって、お金のことなんて考えずにすむようになったとして、「あのときがんばったから」とほめられたら、なんと答えてよいかわからなくなる。お金がない人は、がんばっていないわけじゃないから。それに、がんばらないと貧しくなる社会に生きたくないから。生存ってマジ不随意(これは実家でぬくぬくしていたころからずっと感じていた)。