ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

語彙の簒奪

 「親ガチャ」ということばが批判に晒されるのを見聞きする機会が増えた。その批判(あるいは擁護の声さえも)が誤った知識に基づいている場合というのも少なくない。すごくいやだ。

 この語をとなえはじめたのは、親から深刻な虐待を受けた経験をもつ人々であったと私は認識しているが、「親ガチャ」を単に、親に対する不満を漏らすカジュアルな俗語として紹介するメディアもある。おもにそれが、あらぬ誤解と批判を招いているようだ。

 語彙の簒奪はこうして起こるのか、と私は了解した。

 顔見知りには打ちあけにくい深い傷と苦しみを凝縮し表現し、当事者どうしで共有し、見聞きするものの理解を促すよすがであったはずの「親ガチャ」が、いまでは禁句、反抗期のわがまま、あるいは説教好きのご意見番きどりがまっさきに飛びつく餌のごとき扱いを受けている。すごくいやだ。

 「親ガチャ」のひとことを知って気が楽になった人、育った家庭の異常性にはじめて気づいた人、理解者に会えた人がたくさんいるのだろうな、と勝手に想像をふくらませて、ネットやテレビのおもちゃになった現状と比べてつらい。あと、さっき、「ほんとうに過酷な境遇の人は『親ガチャ』なんて軽口を叩く余裕はないだろうから、やっぱり『親ガチャ』は中流以上の家庭に産まれた凡人の愚痴だろう」とかいう書き込みを目に入れてしまってつらい。いまここを死にもの狂いで生きのびる人間なら、笑ったり冗談を飛ばしたりできるわけがないといいたいの?

 私がネットミームとしての(=本来の語義から外れた用法の)「脳死」「難民」「地雷」等々を激しく嫌悪する根拠も同じようなもので、ここまでがなんの説明にもなっていないのでもうちょっとていねいに書きなおすと、名前を奪ってはならないといいたいのです。

 ある属性や状態を表現することばを、別のことがらを言いあらわすためにあてがってしまったとき、そのことばによって存在を可視化されていたはずの当事者は、どこへゆくのか──どこへもゆけず、なきものにされる。

 「ネットミームになったって、ことばに意味がひとつ増えるだけじゃん」と考える人もあるだろうが、実際のところそれでは済まないのだ。私たちはすぐ忘れるし、なんとなくしゃべるから。語義はそうかんたんに増えない。取って代わられ、乗っ取られる。用法が変われば認識が変わる。ことばに託されていた重みが損なわれる。そのことばによって言いあらわされた人々への視線も変わる。それどころか、見向きもされなくなる。語彙の簒奪は、当事者の艱難、歴史、ひいては存在そのものを等閑視する行為である。

 すぐ上の段落には、われながら言い得て妙だなと感心している。上述のネットミームを抵抗なくつかう人のほとんどは、そもそも辞書に載っている本来の意味に接したことがないのではないか。それがこわい。「親ガチャ」もそうだが、たとえば「フェミニスト」「右派/左派」に嫌悪感を抱く人のほとんどは、おそらくその発祥や原義を調べたことがない。

 かくいう私も、恥を忍んで書きとめておくけれど、「(飼い猫の)奴隷」とか「メンヘラ」とか「飯テロ」とか、生涯でいちどたりとも口にしたことがないと言ったら嘘になる。知ることをさぼらないようにしよ。「そのことばはもともとこういった意味で、だからそのつかいかたは適切じゃない」って教えあってこ。

 私は、過激あるいは粗野なことばづかいをきらっているのではまったくない。恋人の前でも、クソバカとかゴミカスとかおファックとか平気で言うし(恋人に対してそう言うのではないよ)。むしろ、悲惨な状況を適切に形容しうるものは醜悪なことばにほかならないと信じているくらいで、「いかなるときも、うつくしいことばを」には断固反対です。ただ、<本来そのことばによって言いあらわされた人やものごとから、ことばを奪ってはならない>ということは、肝に銘じておきたい。