二〇時すぎに横になり、こんな時間に目がさめてしまう。一時、ふだんなら、これから眠ろうというとき。眠りたいのに眠れないのは、寝つきのすこぶるよい私には珍しい非常事態だ。わけがわからないくらい疲れており、疲れているのに眠れないとはどういうわけかわからない。
きょうあったこと。一〇個入りの卵を買って四個割った。パックを開けたら割れていた。トートバッグのいちばん下にしまって、自転車のかごに載せたのだから当然だ。割れたのを焼いて食べればよかったのに、そのときはなぜか「割れていないのをきれいに洗って冷蔵庫にしまうこと」ばかりが頭を占めており、慌ててシンクでパックごと水浸しにしたから、捨てるほかなくなった。
「神はあなたを愛します」からはじまる長い文章の綴られたリーフレットがポストに入っていた。キリスト教会から便りが届くのははじめてのことだ。神は両性愛者たる私を愛しますか。いつもどおりエントランスの「チラシ回収ボックス」に放りこむこともできたが、かがんで腕を下ろすのもおっくうで、自宅のごみ袋まで連れ帰った。
よかったのは、いただきものの桃がおいしかったこと。空腹のせいで包丁を持つ手つきがおぼつかなかったけれど、卵を割って放心しており、「誤って指を切ってもいまなら痛くないだろう」とやけを起こして剥いた。怪我はしなかった。桃を剥いたのは英断だった。ひときれを口に運んだ瞬間、〈食材を無駄にした人〉であった私はたちまち〈みずみずしい生の白桃をまるまる一個、切って剥いて供されるに値する人〉になりおおせたから。なぜ生きるのかわからないとき、自身の価値がゆらいだときこそ、価値あるものにふさわしいもてなしが沁みる。
わけがわからないくらい疲れているそのわけはわかる。私は今年のオリンピック・パラリンピック開催に反対している。意思決定のプロセスをないがしろにされたこと、利権が人命よりも優先されたことに絶望している。開催の強行は、ここまでの過程を顧みるに「オリンピックのために一般人が死のうとかまわない」というステートメントにほかならない。
開催に反対することは、他人に対する「出場/観戦するな」「楽しむな、喜ぶな」という要請を意味しない。ただし、開催が強行されたという事実とどう折りあいをつけて報道に接することができるのか、観客の心理には強い関心をもっている。開催国に住むだれもが、科学的根拠のない「感染症対策」にもとづいて多大な犠牲を強いる政策に振り回された経験をしているはずだ。そのために職や命を失った人の少なくないことを知っているはずだ。それでもこの状況に打ちのめされない秘訣があるのなら聞かせてほしい。ただもう、私の心身の健康のためだけに。これは素朴な疑問である。
こんなにも打ちのめされることは予期しなかったし、決して望んでもいない。もうすこし実りあることを書きたかったけれど、疲れている。かといって書かなければ、ほんとうになにも実りがない。きょうの日記は、偽らざる感情を書きとめる練習だ。自身による記憶の改竄を防ぐための。感情を偽らないことにも練習が必要だ。私はいま、当惑し、疲弊している。