ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

きらい

 「この人、私のこと好きじゃん」と、驚嘆させられる場面が少なくない。これは、私が魅力的な人格を備えているといううぬぼれの表明ではない。自己認識とのずれに驚く、という程度の意味だ。

 たとえば、こちらの側では「あれほどの無礼を働いたのだから、もう会ってはくれまい」と悔やんでいた折、相手から食事に誘われる。あるいは「いまや私に関心をもってはいまい」と思いなしていた過去の人から便りが届く。そんな場面が多いのである。私のこと好きじゃん、少なくとも私が私を好いているよりは深く、と、目をみはる。

 こういった愛情深く寛容な人々は、なにも私ばかりを特段丁重にもてなすわけではないことなど承知している。それでも驚かずにはいられない──私なら軽蔑する私を受け入れることに。私なら忘れる私を覚えていることに。

 なんとも贅沢な悩みにすぎないのだろうけれど、私は私を好く人々に恵まれたことを、ときおり重苦しく感じる。清濁併せ呑み、なにもかもを水に流す態度を、ときおり疎ましく感じる。私のゆるさないもの、憤ることの多きを、咎められているかのような錯覚に陥るから。

 高校生のころ知りあった人の大部分と、いま会いたくはない。かつての友人をきらっているのではなくて、私自身を恥ずかしく思うのだ。なつかしく思い返すには、私はあまりに幼く愚かだった。高校の同級生であった最愛の宇宙人と交際に至ったのは、ふたりとも内向的な性格で、同じ部活動に所属していた当時はそれほど親しくもなかったおかげかもしれない。二〇歳になるまで、私たちは互いのことをほとんど知らなかった。

 出身高校では、出身高校に愛着をもつ卒業生が大多数を占める気がする。私はあのあたたかくしめった土地がきらいだ。不潔な便所も、いつまで経っても誇らしげな同窓会員も、生徒の希望より進路実績を重んじた当時の方針もきらいだ。屈託なく「みんなに会いたい」とつぶやく声に、私はふたたび、ゆるさないことを咎められているかのような妄想を抱く。「私は別に」と返したところで、責める人はないことなどわかっている。それでも、いっしょに「会いたい」と言えたらよかった、とも、思わないでもない。

 私は私がきらいではないが、私にはどうやらきらいなものが多すぎるらしいことは自覚しており、その点を改める気はない。みずからに、きらうことをゆるす、くたびれる散歩のなかばにある。