ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

仕事納め

 古本を売って受けとったお金でカフェラテを飲みながら、これを書いている。あと七杯は頼める計算だ。資格試験の参考書や技術書にはそこそこの高値がつくらしい。それから、シオランのことばをひもとく『生まれてきたことが苦しいあなたに』も売れた。この一冊が手もとになくてもやってゆけるときがきたようだから、晴れやかな気持ちで手放した。

 きのうが仕事納めだった。仕事納めなるものを経験したのは今年がはじめてだ──私は定職に就いた状態で年を越したことがない。早いうちに問い合わせへの返信を済ませて、午後はひたすら掃除をして、いつもどおり定時に帰る。忙しくも満ち足りた、穏やかで短い一日だった。床にモップをかける社長と先輩に向かって、「お世話になりました」のかわりに「お世話をしてくださってありがとうございました」と言うと、「お世話した覚えはないけど」と笑われた。帰りがけ、みんなして「来年もよろしく」と頭を下げた。しんからそう思った。

 来週にはまた出勤だ。一定の時刻に一定の場所へ向かい、変わらない顔ぶれと一日の大部分を過ごす。われながら信じがたいことだが、そうせねばならないことが、いまでは心安い。仕事が楽しい。職場の人々が好きだ。労働時間は拘束時間を意味しない。〈会社勤め〉と〈自身の生活を切り売りして、わずかな対価を受けとること〉とのあいだにあった等号を、私は三社目にしてようやく取りはずしたのだった。

 決まって行くべきところがあり、そこの居心地がよい。決まってすべきことがあり、それが得意分野や勉強したいことがらと一致している──現在の私の生活を、このように評価してもおおむねさしつかえない。大学卒業にともなって恒久的に喪失したとばかり思っていた自由が、この手にある。頭のなかで極端な選択と親しんでみることは、しばらくないだろう。

 私は私の生活に愛着をもっている。そう口に出せば、きっと涙をこぼす。大学を出て以来、どこへゆこうとだめなのだと、このからだになじむところなどないと、思いつめた一年半だったから。けれど、当然ながら、あるところにはあるのだ。

 疲労と倦怠のなかで、明るい将来などというものは描画しにくい。軽度の適応障害に陥った私も例外ではなかった。先のことなど考えたくない。<この先がある>と考えること自体、たいへん難しい。それで、後先考えず、しきりに身をよじりつづけた。意欲も集中力も削がれたまま、勉強と転職活動だけはそこそこにした。人権意識の欠落した会社はさっさとやめた。

 <いやになったらやめればいい>と知っていることが、技術も経歴も、健康な心身すらもない私を、強く、身軽にした。逃げ足が速くてよかった。したくないことはとことんしたがらなくてよかった。私は怠惰で狭量だ。私は私の生きかたを愛している。