ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

家族と呼ぶなかれ

 家族に愛着を感じない。正確には、家族という呼称に。

 私は、私の家族という集団を構成する個々人のことをきらっているのではない。家族という制度あるいは概念に正の印象をもてないのである。おおざっぱにいって、「家族だからなに?」につきる。

 最初に入った会社は福利厚生のじゅうぶんな大企業で、二社目で出くわしたような人権意識の欠落した上司なども見当たらなかったが、あたたかくしめっぽい大気に耐えかねてさっさとやめてしまった。そこの代表取締役はしばしば壇上から「従業員は家族です」と呼びかけた。当時の私は挨拶を聞き流そうとつとめながらも、苦虫を噛みつぶしたような顔を隠しきれなかった。

 「従業員」と「家族」にはたしかに共通点もある。ひとつには、選べないということだ。ゆえに、家族にもクラスメイトにも同僚にも、ひとしく特別な価値はない。たまたま同じ車両に乗り合わせた人どうしみたいなものだ。仲のよいクラスメイトならもちろん何人もいたけれど、<クラスメイトであるということ>自体はどうでもよろしい。

 この先、日本の婚姻制度がもうすこし合理的で公平なものになったころ、私には配偶者があるかもしれない。そして、その人を家族とは呼びたくないような気がしている。これはたんなる気持ちの問題で、いまのところそんな気持ちでいるというだけのことを書き留めておく。

 家族の一語を甘やかにささやく人々、すすんで家族をもちたがる人々は、家族に対して美しい思い出が醸成する懐かしさ、あるいは暗い挫折に起因する憧れを抱いているのだろう。私にはそのどちらもなく、やはり「家族だからなに?」につきるのである。

 家族に知れたらまた「どうしてそんなに冷たいの? きらいなの?」と悲しそうな顔をされるから、口が裂けても言わない。このことに限らず、現在の私からみる家族は、本心を打ちあけたい相手ではない。私さえ口を開かなければ、不一致の溝を深めずにすむ。

 私のなかで、選択の余地なき関係の最たるものが家族である(配偶者だけは例外的に選べるが)。私は配偶者をそこに含めたくない。愛する人を家族と呼ぶことで、ふたりがともにある意味を、意志の軌跡を、蔽い隠してしまうから。もっと、ただともにありたくてともにあるのだと、わかる名前をつけたい。

 では、家族のかわりになんと呼ぼうか? 好きな文章を書く人を通じて知りあった、これまた好きな文章を書く人は、夫と猫を「メンバー」と呼ぶらしい。この呼称はアイドルグループに由来するそうだ。

 私はこころ躍る妙案に膝を打ったが、そっくりまねるのは難しいとも思った。アイドルは、遠くからまぶしく見上げるのを好むほうだから。恋人と二匹の猫をアイドルと見なすだけならできなくもないが、そうすると私はファンの座に甘んじることになる。どうしたものか。それはさておき、「メンバー」との暮らしはこの上なく楽しげだ。