ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

私に父はない

 私に父はない。夕食後から、すっかり、きっぱり、そういうつもりでいる。このような宣言は、書くべきでないことがらの最たるものだろう。ほんとうに死別したわけではないのだから。けれど、私に、父親と呼びたい人はもういない。

 父であった人は、わが幼少期、温厚でひょうきんな教育者であったと記憶している。旅行と本が好きで、それらを惜しみなく子にも与えた。病弱で知りたがりだった私の、手術に通院、習いごとを支えつづけた。私たち姉妹は、生活にも愛情にもいっさい不自由しなかった。

 父は昔から意固地で不器用で、「ありがとう」や「ごめんなさい」を口にせず、おもに贈り物を差し出すことによって家族への関心を示すようなところがあった。それでも、他人に対してあからさまに刺々しい態度をとる姿は見なかった。風説を盲信して特定の国家や国民を罵倒するという愚劣な真似にも走らなかった。小さな私は、父も母も好きだった。ひとり暮らしの妹がどう思っているのかはたずねないが、いまもそうならよい──私は妹がいまでも好きだ。

 わが家は長いこと朝日新聞を購読していたが、高校生のころだったか、それが届かなくなった。父は「嘘ばっかりでだめだからやめたんだ」と荒っぽい口調で私に告げた。当時の私は現在よりさらにひどく頭がよくなかったから、「おとうさんがそういうなら、そうなんだ」と鵜呑みにして平気でいた。それにしても、攻撃的な大人が家庭にいるのはいやだった。

 大学に進んだ私は、私がいかにものを知らないかという事実(のうちの、ほんのひときれしか知らないのだろうが)に打ちのめされるという稀有な体験に頭をしびれさせ、かつて賢く大きく見えた父も、たいしてものを知らないし、知らないからこそ過度に断定的な口調を恥ずかしげもなく濫用できるのだということに気づきはじめた。父は『正論』や『ウィル』や『ハナダ』を定期購読している。表紙に「韓国なんかいらない」とかいった目障りな太く赤い文字が躍る。私物をリビングにほったらかす人だから、食事中でもそれが視界に入るのだ。

 そのころから私はすでにその人を軽蔑し、父を軽蔑せねばならないことが悲しかった。愛する友人や恋人に決して会わせたくないと感じずにはいられないことが悲しかった。母は、私が差別主義者に怒りを覚え、傷ついていることよりも、子が夫をきらっているらしいことのほうを、心配していたかもしれない。<話しあい>などどちらの親に対してもとうに諦めていたから、本心はわからない。

 このごろその人は、食卓にノートパソコンを持ち込むのが帰宅後の日課となっている。怒ったような、他人を小馬鹿にしたような早口で、あることないことをまくしたてる動画を大音量で視聴する。母の作った夕食を、だらだらと流し込みながら。さすがの母もこれにはまいっている。私は思想信条について実家ではなにひとつ表明しないことによって自尊心を辛くも保持しているから、「大きな音は、頭が痛くなる」とだけ言って、その人の帰宅に合わせて自室に引っ込む。このことばも嘘ではない。毎晩、母をリビングに残してゆくのが心苦しい。

 土曜日の夕食は、タイミングをはかりかねて、その人とともにせざるをえない場合が少なくない。今晩もそうだった。ノートパソコンから、伊藤詩織氏を揶揄する品のない文句が聞こえる。聞く者の思考力を奪うかのごとく、たたみかける音声。反復は扇動の常套手段だ。そこまでは、認めたくもないが、この冷えきった食卓の日常だった。その直後のことだ。威圧的なしわがれ声にまじって、聞き慣れた父の声──鼻でせせら笑う声が耳に入った。

 私はこみあげる吐き気に押されて席を立った。母が切ってくれたアップルパイを楽しみにしていたが、手がつけられずラップをかけて冷蔵庫にしまった。水道水を出しっぱなしにして、周囲に水の音だけが満ちるようにして、皿を洗った。しつこく手も洗った。ひとりの部屋で、吐くつもりでいたが、喉のつかえるような感触は口に広がることなく、鼻を通って目の奥を刺激した。私は泣きたいらしかった。けれど涙は出ない。指先は依然として冷たく、力を抜けば小刻みに震えだす。

 私はながらく父を頭できらっていたが、生理的な、原始的な忌避と拒絶の念までもってしまうつもりはなかった。そんな事態は望んでいなかった。せいぜい「なにを考えているかわからない、おとなしい子」としてふるまっていられたらよかった。そうすれば、母の心だけは痛めつけずにすむから。 

 母の夫であり、実家の世帯主であり、生活費および学費の出資者でもある人は健在だ。しかし私に父はない。