ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

ツイートはフリート

 わがツイートはすべからくあまねくフリートである。すなわち、はじめから長期保存を意図しておらず、また保存に値するとも考えていない。

 カメラロールやブックマークを整理する、というのはわりとポピュラーな暇つぶしのひとつではないかと思う。私はそれと同じような気軽さをもって、手持ち無沙汰になると古いツイートから順番に削除したり、誤字を見つけしだい削除したり、長ったらしいのが目障りになったときに削除したりする。

 なにしろ、愛着のもてない持ち物を増やしたり、不要物を視界に入れたりするのがきらいなのだ。私の机の上にはなにもない。どっかり居座ってよいのは二匹の猫だけだ。また、平面上の画素や文字列も例外ではない。ノートパソコンのデスクトップはからっぽ。それから、メールボックスはつねに「全受信:メールなし」、トークアプリのメインタブは「トークをはじめよう!」を表示している。

 こんな体質だから、〈つぶやき〉の堆積を見れば、キッチンの隅の油っぽい埃や、蓋が浮いて閉まらなくなったくずかごを放置しているようで、あるときふいに耐えがたくなる。それで、消す。消してはつぶやく。つぶやいては消す。垢じみたわが生活そのものである。

 ときどき、みずから疑問を抱きもする。なぜ、保存に値しない程度の、愛着をもてない投稿をくりかえすのか。それはたぶん、ひとりごととおしゃべりのあいだを漂うのがきもちよいからだ。ひとりきりで考え込んで練り上げるのとも、特定のだれかに答えを求めるのとも別のやりかたで、頭を占めていたことばをこぼして逃がしてやる場所が必要なのだ。私の場合、生きているかぎり、空虚であれ野蛮であれ、好むと好まざるとにかかわらずなにかしらのことばを産み落としつづけるほかない。

 こぼしたことばたちがひととおり読まれたあと、反応があったり、なにもなかったり、あるいはさらなる反響を呼んだりする。いずれにせよ、やがて波紋は凪へと消える。そのころ、タイムラインの底に押し出されてゆくツイートは、私にとって用済みの反故と化している。

 ひとりでになくなってしまってもよろしくってよ、と親指に念を込めながら送り出すが、そのような都合のよい仕様変更は予定されておらず、つぶやいては消し、消してはつぶやく。