私にはイケメンセンサーがないから、と電話の向こうの恋人に言うと、当然ながら「イケメンセンサーってなに?」と返ってきた。「好きな男性芸能人はいないの?」とかいったとりとめのない会話をしていたときのことだ。<イケメンセンサー>は私の造語である。「イケメンを見たときにときめく心のはたらきのことだよ」と簡単に説明したところ、「すごくわかった」とひとことあった。
私はこのようにつづけた。美形だなあとか、広く好まれるだろうなあとかって、そのくらいはわかるよ。でも、それって観察にすぎなくて、自分の気持ちは動いてないんだよね。あるとすれば、そのお顔になれるんならなりたいなあ、くらい。好きな女優さんを見たときとは違うんだよね。すき! とか、きょうもかわいいなあとか、ああ、いい一日だなあとかって、なるじゃん。
彼は「じゃあ俺と同じだね」と納得したようすだった。彼にもイケメンセンサーは備わっていないらしい。
上述の「イケメンセンサーがない」感性というのは、じつにたわいなく、ありふれたものかもしれないが、私自身にはいずれ払拭すべき悪癖として意識されている。私がノンバイナリーやパンセクシャルを名乗らない(名乗ることができない)根拠もここにある。つまるところ「男性芸能人にときめかない」私は、著名人や好みの容姿の人々を、一方的かつ無根拠に男/女のどちらかに分類しているのだから。
シャーリーズ・セロンもメーガン・ラピノーも、私の胸にぬるい風を吹きこみ、うっすらとけばだたせ、ざわつきを呼び起こす。それと同時に、性規範に辟易しながらも「美しい女性(に見える人)」に魅せられるこの欲望が孕む矛盾を白日のもとに引きずり出し、呪わしいほどの、忸怩たる思いをさかんに分泌させる。
ところで、最愛の宇宙人は男性だ。端正な童顔の、「イケメン」と呼ぶには愛くるしく、私よりずっと華奢な男だ。私がこの人と交際しているのは、女性の代用品を求めたためでも、「男らしくない男」を好むためでもない。
私は<男らしくあらねばならない>という呪縛をものともしない、率直で聡明なこの男を愛しているだけだ。私自身、指図を受けるのがきらいだから。彼が私に「女らしくふるまえ」と要請したことはいちどもないし、私たちには<らしさ>の定義も判然としない。
その彼が「かっこいいもかわいいも根っこは同じだよ。魅力があるってことだから」と、軽々と、おそらくはたいした考えもなくこぼしたときは、なにとなく嬉しかった。最愛の宇宙人は、かっこよくて、かわいくて、自由で、かしこい。それらは一個人のなかに連立しうるものだ。