ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

猫の気持ち

 ロレーンとデルフィーヌを実家に迎えて九ヶ月経つ。私は猫を知り、猫がわからなくなった──すなわち、二匹を知ったのと引き換えに、猫という普通名詞がまとっていた印象を喪失した。かつて私は猫をどのように見ていただろうか? 気まぐれ、冷淡、神秘的? 思い出したところで、同じ感触を取り戻すことは二度とない。

 ロレーンとデルフィーヌはたしかに気まぐれそのものだ。同じ餌、同じ玩具、同じ撫でかたに対して、都度まるで異なった反応を示す。ただし、気まぐれであるということは、同居する人間たちに関心をもたないということを意味しない。二匹から教わった。どうやら猫にも「寂しい」という感情があるらしいことを、私は確信している。

 二匹はしばしば、私たちの気配を探して家じゅうをうろつき、体温を求めてつきまとう。キジトラのデルフィーヌはとくに甘えんぼうで、せつないほどの甲高い鳴き声を振り切って職場に向かわねばならない朝には、いつまで経っても慣れない。三毛のロレーンのほうは控えめな性格で、やきもちやきのデルフィーヌがいないころを見計らって足元に転がってくる。

 私はながらく猫を愛している。二匹を家に迎える前から、普通名詞の〈猫〉がほかのあらゆる生命より好きだった。あまねく猫を愛する気持ちに変化はない。二匹に会う前と比べて、弱くも強くもならない。ロレーンとデルフィーヌに会って変わったのは、「猫も人間を愛しうる」とかたく信じるようになったという一点のみである。

 以前の私に聞かせたら笑うだろうか。猫は単独行動を好み、生活上の必要に応じて人間と交渉をもつものとばかり思っていたから。人が一方的に猫を好くのだと。けれど、それだけではなかった。私はロレーンとデルフィーヌが好きで、ロレーンとデルフィーヌは私が好きだ。