「ひらちゃん、足立区ほろぼすってよ」──私は思わずそうつぶやいていた。これは東京都足立区議会の白石議員がセクシャルマイノリティを差別する発言をしたとの報道を受けてのことだ。当然ながら、私は足立区や足立区民に悪感情を抱いているのではない。「こいつのいうことが事実なら、私にはその力があるということになるね(=が、現実はそうじゃない、荒唐無稽、不勉強、無知蒙昧、出直してこい)」という意図を込めてツイートを投稿した。
フォロワーのだれもが私の意図のとおりにこの投稿を受けとったと思う。しかし、私はこの冗談を取り下げた。まったくもって笑いごとじゃない、そんな気がしてきたのだ。
私は怒るのがきらいだから、この件については、差別主義者を一笑に付して溜飲を下げようと試みた。それはたやすいことだった。思慮深い友人や同僚に恵まれた私は、セクシャルマイノリティ当事者ながら、そのことを意識させられる場面はさほど多くない。
けれど、たやすきに流れて、なにを得ただろうか? 差別発言を笑いとばそうというこの態度は、私の機嫌をとりなおすほかにいかなる意味をもちうるだろうか? 私ひとりにかんしていえば、「足立区を滅ぼす」のは最良の対処法だった。ほとんど疲れを感じずにすんだ。友人のあたたかさを再確認できた。くりかえすが、これは痛みを最小限に抑えられる対処法だった──「ほんとうは、また呆れ果てて傷ついているにちがいない」とこころを砕いてくれる人々に囲まれた、この私にかぎっていえば。けれど、そうでない人は?
いまもどこかに、きっとそこらじゅうに、職場や家庭内で中傷を受けたり、愛する人と同居しているというだけのことが公言できなかったり、最期を看取れないかもしれないことをおそれたりしている当事者の生活がある。白石区議のような差別主義者さえ区議の座から引きずりおろされないのを見ればわかるとおり、セクシャルマイノリティは多数派とおなじ人間であるという単純な事実を認識している人間ばかりではないのが現実だ。
そのような当事者たちは、区議の差別発言によってまたも基本的人権をおびやかされた。この発言を受けて「どこにも居場所がない」という感覚をますます強くし、死について考えた人も少なくないだろう。それなのに、私が冗談を言ってどうする? 正しい知識のない非当事者に「当事者も茶化しているのだから、たいした問題ではないのだな」という印象を植えつけてどうする?
白石区議の差別発言を笑いとばせるほど、まだこの社会は成熟していない。とうてい許容されない行為を扱ったユーモアは、その行為が〈本来あってはならないことである〉という大前提が共有されてはじめて成立する。そうでなければ、差別を笑うのは、問題のたんなる矮小化であり、差別に加担する行為と変わらない。
私が「足立区を滅ぼす」と軽口を叩くのは、あまりに早すぎた。「足立区は滅びない。人々の身を滅ぼすものは、セクシャルマイノリティではなく、無知にもとづく差別である」とだれもが知った社会でなら、この発言に問題はないだろう。しかし現実はその地平に遠い。
私はこの件について毅然とした態度を保つべきだった。理解者に恵まれているから、これ以上の説明は必要ないと驕っていた。反対だ。理解者に恵まれているからこそ、問題を訴えるべきだった。抑圧され、孤立し、声を上げたくても上げられない人々のかわりに、書くことのできる私が書かないでなんになる。
遠くない未来、白石区議が区議でなくなったころ、私は「足立区を滅ぼす」をこんどこそ力のある笑いに変えたい。権力へのおべっかではなく、強烈なカウンターとして。そして、白石区議を区議でなくするのも、私たちの筆の力、声の力である。