家の人のプライマリな関心の対象が実子から二匹の猫に移行したことによって、私をとりまく親子関係はいくぶん良好になった。家の人は、私をなるべくそばに置いておこうとしたり、私の悲しみを私のごとく悲しんだり、私の壊滅的な社会生活のセンスを目の当たりにしてはひたすら気を揉んだりしなくなった。
愛玩動物は溺愛の受け皿にうってつけだ。むろん私たち家族は、それを目当てに保護猫を迎えたのではない。猫の健康を維持するための人手と経済力を備え、定期的に獣医師の診察と助言を受け、最期を看取る意思をもって飼育にあたっている。ただ、偶然にも、ロレーンとデルフィーヌは家の人の生きがいとして私に取って代わった。
愛玩動物を生きがいにするのは、人間を生きがいにするよりも、双方にとって苦痛の少ない方法であるに違いない。人間にとっての利点のひとつめは、動物の姿やしぐさが愛くるしいということ。ふたつめは、思いどおりにゆかないことで、やきもきせずにすむということ。ことばが通じなくてあたりまえだからだ。そして、もっとも大きな人間との差異は──動物は<自身の存在が他者の生きがいとなっている>という自覚をおそらくもたないから、その状態を負担に感じないということ。
家の人は私を離れて、猫たちに「私がいないとだめなんだから」と笑いかけるようになった。完全に本心から述べているのではないらしい。「そういうふうに思い込むのが生きがい」と説明していた。以前から冗談まじりであることはわかっていても、私はそのことばを投げかけられるたび不可解だった。
私は動物をも含めた他者の生きがいとなることにいっさいの価値を感じない。他者の存在を生きがいとすることも避けたい。ゆえに、実家の猫を溺愛しながらも、自身の手によって動物を飼いはじめるつもりはないし、子どもをもちたくもない。(子育ての場合、「私がいなくても生きてゆける」ようにするところまでが過程に含まれるということは理解しているが、そのいとなみにもやはり興味がもてない。)
いいかえれば、私は他者の生存の必要条件となりたくない。「私がいないと生きてゆけない」存在や関係をつくりだすことに、悦楽を見出せないどころか、わずらわしく重苦しい作業としか思われない。他者から必要とされたり高く評価されたりするのはたいへん喜ばしいことだが、その根拠は私の存在そのものではなく、特定の行為であればよろしい。
最愛の宇宙人もおおむね同じような感覚をもっているらしく、この話をした夜、「飼うならペット型ロボット」というようなことをしきりに提案してきた。彼なら将来つくりかねない。固体と液体を自在に往還するうつくしい猫たちの精緻な模型を頼みたいが、あるいはもっといかにも無機物らしいのが彼の好みかもしれない。