ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

化粧をめぐる杞憂

 毎朝の化粧に五分もかけない。なるべく寝ていたいから。水で顔を洗い、日焼け止めを塗り、眉のあたりにだけベビーパウダーをはたいて、眉毛を描く。マスクを着用せずに外を歩けたころは、唇を静脈血みたいな赤色に塗るのが好きだった。あとは、気が向いたときだけ二色のアイシャドウで遊ぶ。

 つまり「ベースメイク」をほとんどしないのだ。肌の美しさに自信があるわけでも、化粧品によって肌荒れを起こしてしまうといった事情があるわけでもない。にきびの跡も毛穴の赤みも、そこにあってしかるべきものとしか思われず、隠す気が起こらないだけである。

 「見苦しい」と思われたこともあるかもしれないが(内心はまったくもって自由である)、そのように言われたことはない。私の友人はめいめいの日々を過ごすのに忙しく、他人の鼻や頬の表面を点検して寸評をよこす暇などないのだろう。なにより、傷跡や痣を「見苦しい」と断ずるものがあれば、その行為のほうこそ醜悪だとだれもが気づくはずなのだが──素肌にかんしてもその認識が根づいたら、と切に願っている。

 私自身は運よく、なんの指図も受けずに裸の皮膚に白日を浴びせているが、それだけのことが許されない、あるいはみずからに許すことができない人は少なくないらしい。たとえ自身に向けた冗談だとしても、「肌が汚い」などと聞くと悲しくなる。むろん私も鏡を見て幾度となく感じてきたことではあるが、同じ悩みをもつ人を間接的に貶めてまで口にしたいことばではないと思い直して、発言を控えるようになった。

 ようやく「化粧はしたくてするもの」「女性でなくても化粧を楽しめる」といったメッセージを含む広告を目にするようにはなってきたものの、消費者の自尊感情に劇的な改善はみられていないというのが私の率直な感想だ。「だれもが化粧をしてよい」が浸透するいっぽうで、「したくなければ化粧をしなくてもよい」はいまだ社会通念といいがたい。

 私たちは「私はありのままうつくしい」「美は決して画一的なものではない」という確信を得られないまま、よそおうことの快楽のみをくりかえし刷り込まれる社会に生きている(売り手には都合のよいことだから、この構造が自然に壊れることはない。将来は私たちの選ぶ目しだいといえよう)。すると、どうなるか。「化粧を楽しもう」という前向きなはずのことばが、劣等感を刺戟するもの、同調圧力や強迫観念としても働きうる。私の敬愛する書き手は〈きれいになりたい〉と〈きれいにならなきゃ〉が不可分であることを指摘し、深く思い悩んでいた。

 化粧をすることも、化粧品も、決して悪いものではない。化粧が〈せざるをえないもの〉と位置づけられる現状を苦々しく思っているだけだ。私は〈化粧はしたいときにしたいだけするもの〉といいきれる自由を望んでいるのみである。

 ときおり、こんな悪夢が脳裏をかすめる。「メンズメイク」が(選択肢ではなく)「常識」とされ、思春期のにきびさえ覆い隠すことが「マナー」とされた未来、皮脂の分泌も運動量も多い少年たちが、育ちざかりの傷つきやすい肌にファンデーションを塗りたくる。「女性でなくても化粧を楽しめる」が「女性でなくても化粧をせねばならない」に転倒する──これが私の空虚な妄想にすぎないことを祈って、当記事の題が決まった。