ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

そうは見えない

 私が家の人に発達障害ではないかとたずねられたことをうちあけたさい、「そうは見えない」と答えた友人のひとりもなかったことは、まことにさいわいだった、と思い返すたびしみじみする。受診してみないので、結果はわからずじまいである。それでかまわない。私はここで、答え合わせをしたいのではない。

 「あなたは発達障害に見えない」と専門家以外の人間が口にするのは、おこがましいまねではないかと考える。発達障害をもつ人とそうでない人の「見分け」が、ふだんからついているのか。「見える」ようにふるまったらどのような扱いを受けるかと危惧して「見せない」ことを選択する場合には思いいたらないのか。要するに、見えるだの見えないだのと判定を下せるほどの、なにを知っているというのか。

 私はASDではないかと疑われている、と聞かされた友人たちの反応は、めいめい「判断の根拠は?」「特徴は?」とかいったようすで、こまごまとなにかしらの質問を差し出してくるのだった。そしてだれも「そうかも」「そうじゃない」といったふうに所見を述べることはなく、私のほうでもたずねはしなかった。このことは、相談でも質問でもなく、近況の報告として話題にしたのだ。素人の判断に意味を見出すべきことがらでないことは明白だ。

 解決も回答もない話につきあわされた友人たちは疲れたかもしれないが、私は嬉しかった。実りあるおしゃべりだった。友人たちの、わからないことに対する敬虔な態度をみたから。

 恋人も友人たちと同様の反応を示した。「きっと違う」とか「そうだとしても変わらず愛している」とかいった滑稽なことばは、むろん口にしなかった。私の話をひととおり聞いたあとで、ひとこと「そうだとしたら俺もだよ」と答えた。真偽は定かでない。ひたすら似ているということだけをたしかめて、やはり私は嬉しかった。