今年、十二支の三周目に突入する「もういい歳」の私がいまさら家族を悪しざまに言うのは、逆説的ながら、そのことに罪の意識を感じるためでもある。「出てゆきたい」と口にするとき、棘をまきちらしているという不愉快な自覚がある。これは不健康な状態ではないか。そして十代のころ取り組むべき宿題だったのではないか。振り払おうとして、重い蓋を開け、ことばをこぼす。
たんに合わない、それにもかかわらず近すぎる。思うことはこれにつきる。家族のだれも悪意をもってなどいないことは知っているし、私も嫌悪感を抱いてはいない。ただし、孤独を要する私は狭量で、家庭というものもまた狭い。毎日のように顔を合わせたら、最愛の宇宙人に対してさえ、正の関心を抱きつづける自信がない(私にとっては『のだめカンタービレ』方式の「同棲」が、もっとも好ましい生活様式だ)。
離れて愛しあう他人どうしになりたい。ことばを額面どおりにしか受けとれない先天性の疾患をもつ私に、人々の心情の機微は汲みとれない。楽しげな食卓に、自身の「気難しい」気質が水を差しているらしい、ということだけがわかる。きっと、まれに顔を合わせるだけの関係に落ち着けば、互いを歓迎できるだろう。このことは転職活動にいそしむ強い動機となっている。