思想および言論の自由は封殺されているが、経済的には申し分なく豊かな社会、またはその反対、暮らすならどちらがましか、というような質問を高校の授業中に投げかけられた記憶がある。クラスメイトの多くは前者と答え、教師を驚かせた。そのなかに私もいた。生徒たちは、少なくとも私は、形式に対してのみ従順にふるまい、腹の内でひそかに中指を立ててやればよろしかろうと考えたのだった。
腹の内で中指を立てることは決してたやすくない、とふいに思い直したのは、文学部を卒業したあとになってからだ。ことばなくして考えること、すなわち自由であることなど、なぜできよう。
言語は思惟のよすがである。語彙を制限することは、混みあって伸びた感受性の枝を切り落とすことに等しい。統制を受けずとも、なにを思っているか、みずからことばを選びぬいて写しとる作業を怠るうちに、枯らしてしまう場合もあるだろう。そうしてことばを貧しくしたとき、いかに思い、感じるか、という芯のところまで、すっかり書き換えられてしまう。あるいは、なにも感じなくなる。私はその事態をおそれて、少ないことばを産み落としては削りとることに汲々とする。