ひらログ

おひまつぶしにどうぞ。

まじめ

 適応障害のことを聞いた母は、納得したというようすで、あなたはまじめで責任感が強いから、と返事をした。すかさず私は反論を試みていた。さっさとやめたいとこぼしてばかりだし、重圧も自己嫌悪も感じていないつもりだけれど、と。そういうことじゃなくて、と母はつづけた。明日だって、休みたいんだから休むって人もいるでしょう。私は黙ってうなずいた。母の私に向ける観察眼は、私自身よりずっと精度が高いのだろう。

 治療の到達地点が定まらないから、意欲が湧かない。たとえば、腕を折ったとしたら、ふたたびクロッキー帳やグランドピアノの上で躍るために、苦しいリハビリにも励むような気がする。けれど、この病は事情が違う。私は私を治して会社に適応したいなどとはとうてい思えないのだ。やめるとしてもそのあと、と医師に告げられて、ひどく疲れた。むろん、むやみに退職を勧め、復帰の可能性を摘み取るのが良医であるとは考えていない。現在の私が、正解を志向するほど健康ではないというだけのことだ。判断力を取り戻さねばなるまい。

 私はみずからの欲求や違和感を疑わずにいられないが、拭い去ることもできない。そのことは、これまでに幾度となく私の背中を押しも首を絞めもした。現状に甘んじるのも、野放図に走るのも、ひとしく難しい。