理由を訊かれることに痛痒を感じる場面が多々ある。なぜ髪を切ったのか、なぜ飲み会に来られないのか、なぜ「うちの会社」に入ったのか。それらの質問には、たいてい、差し支えがあれば答えなくてもかまわない、という注釈がついている。これによって、答えないという選択が、なにかしらの意味を帯びてくるようにも見える。それこそ私の望まぬ事態であるから、てきとうに見繕った回答を提出する。すると相手は納得や感心のポーズをとる。事実が知りたいわけではまったくないのだろう、と私はそのとき理解する。そしてわけもなく疲れている。空虚なやりとりだと思う。
しかし、地球人の文法によれば、「あなたに興味があります」と示すことは接近の手段あるいは好意の表現にあたるらしいことはすでに知っているから、わけもなく疲れる自身のほうが矯正されるべきなのだろう、とも思う。それにかんしてはとうに諦めているが、にこにこ、へらへらと応対する努力だけは欠かさない。
なぜ一秒でも早く帰ろうとせず、おしゃべりに興じるのか。なぜ「〈彼氏〉はいるの?」と決めてかかるのか。なぜそんなことを訊きたがるのか。不可解なことは多いが、たずねてみる気は起こらない。この人は私ではないからだ、と私のなかで答えは出ている。