違和や不愉快を覚えたとき、それらが永続するかのように思いなし、みずから苦痛を増幅してしまうのは、ただちに治すべき思考の悪癖に違いない。私は会社をやめたいが、会社勤めをきらう要因が取り除かれる可能性を排して、こう言っているにすぎないのだ。
私が会社をやめたいのは、だいいちに刑期が長いからだ。一日や一週間を単位としても、その総量(定年は六五歳という契約になっている)にしても。朝から晩までを差し出して、それと引き換えに、ひとり暮らしをすればほとんど残らない程度の賃金を得る。そのような生活に身を投げて、私は、勉強をしたり、外の風で胸を満たしたり、なにもしなかったりする時間に飢えている。
立ち止まって、こうも考える。研修期間を終え、本配属先に戻れば、仕事がおもしろくなるかもしれない。余暇までも拘束しにかかる飲み会が頻繁に開かれるのは、はじめのうちだけかもしれない、と。そしてまた、いやなものはいやなのだ、いま、いやでたまらないのだ、に戻ってくる。悪癖が顔を出す。幼児のようである。これは欲求のしもべたる幼児の直観だが、社風になじめないという感覚は今後とも拭えないだろう。ここは、つきあいのよさが仕事のしやすさを決めるとだれもが言ってはばからない、あたたかくしめっぽい土地だから。