大学の講義中には間違っても聞かなかった、先生方のひどくきらった疑似科学、アジテーション、激励のかたちをとった脅迫、などを放散する社員たちはみな善意と純情に満ちており、そのなかで私のことばは通じにくいようで、それもそうだ、ここは日本なのだから、と折にふれ目をさますようになりました。
研修の内容に誤りがあると判断した場合には、ここにものを書くのと同じ調子で日報に書き留めます。自分のことばで話せる砦を会社のなかにも持っておきたいからです。率直な言動はときに歓迎され、いまのところ「自由な社風」という触れ込みは信頼に足ると見ています。
多数決に従えば「まとも」でないのは人文学の研究者ということになる、というのはたえず意識させられていたことです。そこで、「経営者も労働者も教育者ではないのだから、年長の人が教授のごとき思慮を備えていると勝手に期待して、あてが外れて深手を負うのはまったく甲斐のないことだ」といったん結論したところ、一日八時間の地球見物をこなすことは、いくぶんやさしくなりました。けれど、私が無知と誤解にもとづき、屈託のない笑顔で人に刃を振りかざしたさい、思い切り顔をしかめてくれる学友のいない環境は、相変わらずこころもとなく、そらおそろしく感じられます。