怒るのがきらいで、部屋にテレビを置かないのですが、不注意でワイドショーなど目に入れようものなら、「正気か?」と「いや、まともでないのはこちらだ」とを一分おきくらいにくりかえすはめになります。
私の場合、〈怒りたくない〉は〈正しさのもとに声を上げるつもりはない〉とひとしく、これは危うくて、こずるい傾向でもあります。私は私の正しさをとうてい信じられず、「正しくない」もの、たとえば差別や偏見については、一笑に付してすますのがせいいっぱいなのです。獣とことばを通わせようとこころみて、「なぜわからないのか」と叫んでいるうちに、こちらの顔のほうが獣じみてくる──正しき糾弾のことばに接したさいにはそんな空想をします。私は明らかに間違っています。
考えうるかぎり選び抜いたとはいえ、会社もまた、私をすり減らすもののひとつです。そこそこの規模と歴史ある日本企業は、日本社会と相似形をなすらしく、すなわちそれは人権後進国の縮図であって、しらふではいたたまれないような善意と純情が充満しています。そこで正気を保っていられる人々と私は集団生活を営みたくありませんが、宇宙人を探すにも人里に出ねばならない(最愛の宇宙人をはじめに観測したのは、教団にも似た部活動のなかでした)以上、しかたありません。