自分の声は「浮いている」というよりむしろ沈殿している、と、女の子と話しながらしょっちゅう感じます。透きとおっていたり、熱っぽかったりする、多彩な高い声を聞き、私がきまって想起するのは、かわいらしい手毬麩です。汁椀の底から見上げる気分でしゃべります。これといった実用性はない絶対音感が、水面までの距離をみずからの耳にはっきりと知らせます。
混雑したショッピングモールで、あやうく溺れかけた直後みたいに呆然とするのも、最後に美容院を訪れてから二年あまり経つのも、ひとつには、この通りにくいかすれた声のせいです。受け答えがたいへん難しく、しかし黙りこむわけにもゆかず、せいいっぱい明瞭な声を作って張り上げる(と、ようやく相手に届くが、その苦しい加工をやめたとたんにやり取りを途切れさせてしまうか、機嫌を損ねたと思わせてしまう)、その作業を思うだけでくらくらしてきます。
にぎやかなおしゃべりに適性のない私が、屈託なく甘い気持ちに満たされて話すときは、声色に作為がないため、返事を待たずに眠りそうな緩慢さで、ぽつりぽつりと、ことばを低くこぼしています。ほほえみともまどろみともつかないものを交わしあう、実りのない、弾まない会話が私は好きなのです。