漱石をして「その薄命と無残の最後に同情の涙を濺がぬ者はあるまい」と書かしめた九日間の女王を見に、上野の美術館へ行きました。その日もやはり濡れた傘を携えていました。私が人に会うと雨が降るようです。
目当ての展示品たちは常に分厚い人混みを隔てたところにありました。作品解説の文字がときおりつぶれて見え、また目を悪くしたのかと焦りました。サロメも夢魔の下に横たわる女性も、そばに寄れなかった絵画のかわりに、売店のポストカードやスカーフからその表情を見知ったのでした。触れんばかりに近づいて本物に見とれる贅沢は許されませんでしたが、行儀のよい行列と人いきれと、眼前の光景にとらわれた無数の横顔と、他人のヘッドホンから漏れてくる吉田羊の語りと、すべてがかけがえのないゆたかな生身の体験として記憶に残っています。
「怖い絵」より怖かったのは中野京子氏による解説文です。接続や句読点の位置にひっかかりを覚えながらも、ほとばしる情熱に押されて読みきってしまう、そんな力がこもっていました。文法上の禁則に、作品への愛が打ち勝って突き進んでゆくようでした。私はあれらを、こころひそかに狂気のラブレターと呼んでいます。