私と交際相手は、来春から同居をはじめるにあたり、「結婚を前提とした真剣な交際」であることを周囲に説明する必要があった。どういうわけか、周囲が説明を必要とするらしかった。 私たちは結婚(法律婚)に意義を見出さない。私は、同性カップルを埒外に退…
このごろようやく、人称代名詞「she/her」を引き受けてもかまわないと思いはじめた。きっかけは定かでないけれど、たぶん襟足を刈り上げたあとから。 私は、人生の大部分において、自身のジェンダーアイデンティティを決めかねていた。小学生のころにはすで…
人生は選べない。私が生殖を望まない最大の根拠は、おそらくこの感覚にある。生まれてしまったからには、主体的に、意欲的に生きのびたい。そう願いつづけ、足掻いてもなお、「人生は選べない」の一文は、みずからに押した烙印のごとく脳裏に焼き付いている…
パートナーと一致することが望ましい条件のうち、どうやら私がもっとも重視しているらしいものは、価値観でも性格でもなく、通信プロトコルだ。プロトコルの一致はあくまで対等な関係を築くための必要条件であり、十分条件たりえないけれど。 私と最愛の宇宙…
退職したい理由の第三位くらいに、「社風に共鳴できない」というのが挙げられる。もっと上のほうには、生活が苦しいというのと、技術的な成長が望めないというのがある。さいわいなことに、薄給より耐えがたかった国籍差別の「冗談」は、このごろ耳に入って…
猫のある暮らしのすばらしさについては古来語りつくされているようだから、あえて猫を飼うデメリットについて書く。 猫は(少なくとも私の生まれた家に住む二匹は)、そこらじゅうで爪を研ぎ、口に入るものは齧り、倒したり落としたりできるものはそのように…
妹に夏季休暇の予定をたずねられ、帰省という選択肢の存在を思い出す。私は今年も、生まれた家に顔を出さない。 二匹の猫にはずっと会いたい。母のことも、別々に暮らしてからは友人のように思っている。それでも、実家を帰る場所と見たことはない。わが家と…
口座の残高が暗証番号の四桁を下回った。某オンライン決済サービスのアカウントが不正利用されたのだ。当然ながら返金は約束されたが、一時的にとはいえ大変な不便を強いられ、吹けば飛ぶようなわが暮らしのありさまを見せつけられ、底知れぬ不安に苛まれた…
私が喫煙者なら煙草を吸いに出ていたところだ、と思う瞬間が今週は何度かあった。職場で苛立ちを覚えてしまうことが多かった。なぜ煙草を想像したかはわからない──吸えない、そして吸いたくない理由に事欠かないというのに。夜更けに見たベーシストの写真が…
「前の会社で、文章のお仕事とかしてたんですか?」と、企画担当者が私にたずねた。手渡された箇条書きのメモをもとに、ブランドサイトに掲載する文章を練り上げているときのことだった。いえ、お客さん宛のメールを手直しされてばかりでした、と答えると、…
会社を休む。なぜここで働くのかわからなくなるできごとが、またも降りかかった。欠勤という蠱惑的な選択肢は絶えず脳裏を遊泳しているものだ。今朝は、それをあえて振り払う動機が見当たらず、甘んじて手にかかった。なんとも快い。職場まで足を引きずるよ…
ブログやTwitterをつづけることができるのは一種の才能だ。なにかしらテーマを設定しているならまだしも、たんなる日記やつぶやきをひたすらインターネットの濁流に放すという行為は、意義を見出さない人からすれば狂気の沙汰ではないか。もっとも、趣味とい…
「人間観察が趣味」と話す美容師の施術を受けた妹が、その発言に「ドン引きした」といったような内容のメッセージを送ってきた日、私は奇妙な安堵を覚えた。ああ、人間観察は歓迎される趣味じゃないんだな。そう感じるのは私だけじゃないんだな。 妹が「人間…
母と昼食をとった。店は私が選んだ。幼稚園児のころ、平日の昼間に何度も訪れたイタリア料理店。通院の帰りに立ち寄って、焼きたてのピザをほおばった記憶がある。病弱だった私に、母はいつもご褒美を用意してくれたのだ。「よくここでおさぼりをしたね」と…
代表取締役は雇用主であって上司ではない。少なくともこの会社では。 「頼んでいた仕事を直前になって断られ、ほかの従業員の目にもふれる場所で一方的に抗議された」とのことで、その仕事を引き受けるはずだった従業員に対して「こちらも思うところがある」…
先月、生まれてはじめて、顔にしみを見つけた。今月は、採血の結果、中性脂肪が基準値を上回っていると判明した。これまでどおり過ごしてきたのに、と首を傾げたのち、これまでどおり過ごしてきたからだ、とうなずく。きっとこれが、歳を重ねるということな…
不随意にして不可逆であるという点において、誕生および生存は、前触れなく眼前に注がれた一杯のコーヒーに似ている。 私にはそれを注文した覚えがない。かといって、すでに供されたものを、あえて残したり捨てたりするのも本意ではない。他人に口をつけられ…
(「どんな感じの男性が好きなんですか!」に対して)私が男性を好きとは限らないので質問の仕方を変えていった方がいいかなと思いました!どんな人に恋愛感情を抱きますか?とかかなあ(質問の答えになってない) 橋本愛 Instagram(@ai__hashimoto)より 橋…
血液型性格判断とか男脳・女脳とかの本が本棚にある人とはともだちになれないってずっと言ってる。「ただの遊びじゃん」「趣味の違いくらいだれにだってあるでしょ」ってもうひとりのぼくに促されて、亀裂を埋めようと試みたこともあるけれど、不毛な努力だ…
あっけなく痩せてゆく肉体が自身のものとはおもわれないということへの戸惑いを綴って、数ヶ月が過ぎた。その後まもなく体重の減少は止まった。人体のホメオスタシスには目をみはるものがある。 私はようやく、私のからだに実感をもちはじめることができた。…
「よくなりますよ」と医師に言われた、との確認が取れたから、ようやく書く。両親が新型コロナウイルスに感染した。祖父母や猫をも含めて、実家に重症者は出なかった。ふたりは快方に向かっているとのことだ。インフルエンザ並の高熱を出したとはいえ、医学…
私と最愛の宇宙人とは、それぞれが別の場所で不可解や不愉快に遭遇した日、その旨を気軽に報告する。昨晩の電話では、おもに私が報告をする番で、「取引先の代表が、先輩に妻子がないことをわざわざ聞き出した上で『結婚しないなんてさびしいよ』『結婚をし…
ことし二六歳になるらしい。生まれてきてしまったこと、生きてゆかねばならぬことを、どうとらえてよいのかわからないまま、なんだかんだ、おおむねすこやかにながらえ、四半世紀を突破した。 いまのところは、歳を重ねるごとにいろいろのことがやり過ごしや…
べつに夜型じゃなかったっぽい このごろラジオ体操の放送より早く目が覚める。実家では、正午まで寝ているのが標準だったのに。体質上どうしても起きられないわけじゃなかったのか。家の人たちが早寝早起きだから、自然とピークシフトを実践していただけかも…
ベースが弾きたい。でも、日商簿記検定試験を週末に控えているから弾かない。ひさしぶりの弦楽器をひっぱりだしたら、利き手にまめができちゃうもんね。 試験前の私をいらだたせるものは、いつだって試験勉強それ自体ではなく、したいこととしてはならないこ…
手取り16万円台・賞与なし・昇給の見込みなしのひとり暮らしをつづけた感想は「暮らしてゆくのに困ることはない。それ以上のなにものでもない。来週は心配ない。来月もなんとかなる。来年以降のことを考えると、不満と不安で胸がつぶれそうになる」ってとこ…
じゅうぶん人口に膾炙しやがて辞書に収録されるとしても、私自身がつかうことはないだろうと(現時点では)見ている表現がふたつある。「関係性」と「〜させていただく」だ。 「関係性」については、使用者のなかでは「関係」と明確に区別されており、意図を…
社内でいちばん歳は近いがいちばん社歴の長い先輩に、腹の内を五割強くらいぶちまけた。(弊社は「日本人の足を美しく見せる」靴をつくって売っている。) 自社ブランドの、私がやめるとしたら理由はこれってくらいきらいなところは、「日本人」を連呼するク…
二年あまりのあいだに三度の就職をし、ごくありふれた新卒なみに貧乏をしている私は、実家を出るまでお金に困ったことがない。首都圏の裕福な家庭に生まれ、自力で学費を払うことなく私立大学を出た。これは偶然だ。大いなる僥倖だ。 けれど、恥を忍んで書き…
歳下のアイドル 二〇代後半にさしかかり、歳下の俳優やアイドルを好くことが珍しくなくなった。歳下の成人がざらにいるようになったためだろう。私は歳下に魅力を感じないのではなく、過重な感情労働に従事する未成年を観賞したくないらしかった。「新人発掘…