ひらログ

ひららかのブログ

母の教え

 母と昼食をとった。店は私が選んだ。幼稚園児のころ、平日の昼間に何度も訪れたイタリア料理店。通院の帰りに立ち寄って、焼きたてのピザをほおばった記憶がある。病弱だった私に、母はいつもご褒美を用意してくれたのだ。「よくここでおさぼりをしたね」と母は笑う。

 「おさぼり」は幼い私に不可欠な時間であり、私を形成した経験のひとつであったように思われる。小学校に入り、からだが丈夫になってからも、「学校に行きなさい」とはいちども言われなかった。母は私の健康を祈り、私自身の選択より重んじるべきものはないのだと、ことばによらず私に教えた。

 母は私に、彼氏とはどうだとか結婚はまだかとか、断じてたずねない。私を目の前にしながら、その場にいない人への興味を示すことに終始したりなどしない。以前は、仕事や体調についていくつかの質問があったけれど、それもなくなった。話したいことがらであれば、私は促されなくても話す。現在の母は私の扱いを熟知しているらしかった。

 私の二倍くらい、母が話す。口下手な私には、おしゃべりを聞くほうが心地よい。職場環境の変化、取りたい資格、読んでいる本、行ってみたいカフェ、その他いくつもの関心事。話題がころころ変わるのはいつものことだ。母の目は、いつだって未来のほうを向いている。懐かしむばかりではつまらない、と子どものころ聞いた。外から刺激を受けたくて働くのだ、とその日は言った。家のなかで世界が閉じるのはこわいと。

 母は私のようなことを考える、と思いかけたが──実際のところ、私が母のように考えているのだ。私はこのとき、生まれてはじめて、この事実をしんから肯定した。家族という形態や血縁に意義を見出したのではない。私のなかに母の意志を見たのだ。私は母に育てられた。私ははじめに母から教わった。

 この人と再び暮らしたくはない。生まれた家に住んでいただれに対しても同じことだ。両親から受けた愛情を疑ったことはなかったけれど、それが私の幸福を約束するものではないということも身に沁みてわかっている。私の殻はかたい。いろいろのことがいたたまれなくて、家を出た。そうして、母と私とは、ようやく一個の人間どうしになった。

 私たちは、ともに二匹の猫をかわいがり、勉強の成果を報告しては励ましあい、コーヒーのおいしい店を探す、友人のような関係にある。そう私は見ている。 

曲がり角

 先月、生まれてはじめて、顔にしみを見つけた。今月は、採血の結果、中性脂肪が基準値を上回っていると判明した。これまでどおり過ごしてきたのに、と首を傾げたのち、これまでどおり過ごしてきたからだ、とうなずく。きっとこれが、歳を重ねるということなのだ。不摂生をすれば、それなりに響くからだになったのだ。

 悲嘆に暮れるというほどの感慨はない。加齢が不可逆の変質を意味するという事実は、出生の瞬間にはすでに決定されている。私の運動音痴はきっと一生治らないし、母や妹の背丈を越すことは不可能だと、悟ったのは十代のころだった。なにより耐えがたかったのは第二次性徴で、グロテスクな病変としか思われず、しかしそのような感想を述べてはならないらしいこと、述べたところで、枯れた血を流さない平坦な胴体を取り戻せるはずがないことを、数年かけてのみこんだ。

 採血の結果を聞いたその日に、運動不足の解消を兼ねて長い散歩をした。この身軽さは私の美点だ(人を巻き込む力に欠けるが、ひとりでどこへでもゆける)。川沿いを南下し、橋を渡って北上した。砂まじりの突風を浴び、砂利と枯れ草を踏みしめた。小規模なダムを見下ろし、ジャンクションを見上げた。流れゆくもの、わけがわからないくらい大きなものを眺めるのが好きで、足の裏を痛めながら興奮していた。

 散歩はおもしろかった。欲求と感性の曲がり角には、まださしかかっていないらしい。歩きたい。弾きたい、歌いたい。読みたい、書きたい。知りたい。会いたい。肉体の変質にはおおむね納得しているが、思い描き、望み、叶えんとする精神力の喪失は、死ぬほどおそろしい。私を生き生きと生かすものは、私自身の希望にほかならない。

 不摂生が響くからだは、養生にもそれなりに応えてくれるのだろうか──そんな淡い期待(信仰といいかえて、さしつかえないかもしれない)を腹に抱えて、野菜たっぷりの夕食を終え、これを書いている。生活態度を改めるのは、一年がかりの、ちっぽけな人体実験のつもりだ。

 いくつになっても、覚えておきたいことがある。個人的な経験を過度に一般化し、「あなたはまだ若いからいいけれど」などと歳下を相手にのたまう蛮行には、決して及ぶまい。二六歳まで生きのびようとしている私にわかるのは、私自身がどのような二五歳であったかということだけだ。

こぼれたミルク

 不随意にして不可逆であるという点において、誕生および生存は、前触れなく眼前に注がれた一杯のコーヒーに似ている。

 私にはそれを注文した覚えがない。かといって、すでに供されたものを、あえて残したり捨てたりするのも本意ではない。他人に口をつけられたり、取り上げられたりするとしたら、もっと不愉快だ。飲み干すほかないということだけが動かしがたい事実であるなら、おもしろく味わうのが合理的な方法だろうと判断し、そのようにつとめる。けれど、どれほど深く湯気を吸いこみ、口に含んだところで、当惑がほどけることはない。不可解はのみこめない。なぜ、私にそれが与えられたのか。

 私は弱い人間だから、「人間は生まれてこないほうがよろしかったのではないか」と幼少期からつねに疑っており、そのくせこのしぐさを脱ぎ捨ててしまいたいと願ってもいる。すでに生まれてしまった人間は死ぬべきであるとも、人間は産むことをやめるべきであるとも考えていないからだ。生まれてしまったからには、生まれてきてよかったと感じながら生きて死にたい。産みたがる人に対しては、ぜひともその望みが叶ってほしい、のひとことにつきる。

 人道に対する罪が犯され、無数の人々が血を流し、命を落とした。私は、なんというべきか、なにをいってよいのか、わからない。あきらめにとらわれてしまった。憤りを失望が塗りつぶしてしまった。力をもって力を制するほかに術はないのか? 私の信じた理想は、夢想あるいは妄想にすぎなかったのか?

 恐ろしく大きな流れに身を投げるのが、生きるということなのか? そうだとしたら、私たちはなぜ、いまここにあるのか。私である必要がどこにあるのか。私があることは必然なのか。生まれてからおそらく死ぬまで、生きてゆくことと、希望を抱くことやみずから選択することとが、いまにもばらばらに裂けそうな災害と事件のくりかえしだ。

 先月にはじまったことではない。あたたかな部屋に閉じこもっているのに、なにかずっと悲しく、恥ずかしい。ここにありながら、ここにありつづけるのが正しいことなのか、わからない。私の悲しみがなんになるのか、私が悲しがってかまわないのか、わからない。

 力も知ももたざる私はしかし、ことばをもって、最悪の状況を最悪であると断ずる気力だけは、ただちに取り戻さねばなるまい。それさえ怠るのは、平生より忌み嫌う「置かれた場所で咲きなさい」「身の丈に合わせて」にもひとしい、唾棄すべき態度ではないか。あってはならないことにただ「あってはならない」と告げる最後の勇気をも失ってしまえば、事態はいっそう悪いほうへ、もつれこんでゆくばかりだろう。

橋本愛が好きだ

(「どんな感じの男性が好きなんですか!」に対して)私が男性を好きとは限らないので質問の仕方を変えていった方がいいかなと思いました!どんな人に恋愛感情を抱きますか?とかかなあ😊(質問の答えになってない)

橋本愛 Instagram@ai__hashimoto)より

 橋本愛さん、あなたのオタクでよかった。きょうは橋本愛さんのアンサーから私が学んだこと、そのほか個人的にラブいと感じたポイントを書くね。

 

(質問の答えになってない)

 最初は「なってるよ! じゅうぶん!」と思ったけれど、たしかに質問者の要求には応じていないかも。そこがいい。

 「不用意な質問には答えなくてかまわない」という態度を著名人が示してくれたこと、すごく頼もしい。答えざるをえない人にはなんの落ち度もない(問題はいつだってたずねる人にある)が、やはり答えない人のあることは心強い。「答えになってない」と形容するには、橋本愛さんのアンサーは親切すぎるくらいだけれど。

 過去には「好きな男性のタイプ」を明かす「女優・橋本愛」を演じねばならない場面もあったんじゃないかな。そして、またそうすることもできたのに、そうはしない。強い覚悟がうかがえる。

 

どんな人に恋愛感情を抱きますか?とかかなあ😊

 改善を求めると同時に、具体例を提示するこまやかさ。ここまでいっしょに考えてくれるなんて、愛だね。

 たぶんこれって「とかかなあ」のところに橋本愛さんの実感がこもっていて、唯一の正解などないという事実をしかと受け止めつつ、「だから考えんのやーめた」で済ませることもしないからこそ、曖昧さを回避できなかったのだと私は読んだ。

 「いまの私はこう考えます」と「あなたも考えてみて」と「考えつづけましょう」のさわやかな風が吹いている(さわやかな風はオタクの主観です)。事実に誠実であろうとすればするほど、断定的な物言いから遠ざかるのはありふれた現象だ。

 

私が男性を好きとは限らない

 これ! ここすき! このステートメントは、私には立場上すでに不可能となったことでもあり、はじめからそんな発想もなかったので、しびれた。射抜かれた。そしていったい何百人、何千人のこころに光がさしただろうか、と涙ぐみかけた。

 なんのこと? っていうと、ここで私が感激したのは、<橋本愛さんは自身のセクシュアリティに言及していない>という点です。なんてあざやかなの。六色の虹がきらめいてる。それでいて、「私が」と主語を引き受けて語る姿勢にも、橋本愛さんの決意を感じる。「私は男性を好きにならないので」でも「男性を好きにならない人もいるので」でもない、軽やかで鋭い指摘。

 もちろん、「私は男性を好きにならないので」と公言する人があることも重要だ(正しくは、公言しても不利益を被らない社会であることこそ重要だ)。今後、橋本愛さんが自身のセクシュアリティを公表することがあれば、その勇気にこころからの敬意を表したい(この仮定は「橋本愛性的少数者だろう」という決めつけを意味しません)。そもそも、私自身はこちらの生きかたを選んだ立場だ──すなわちカミングアウトをした性的少数者だ。

 私はバイセクシャルを名乗るバイセクシャルであることに誇りをもっている。意義深く、この社会に不可欠で、容易ではないことをしていると信じている。だれかしらの孤独をほんのちょっと稀釈するお役に立っているのではないのかな、と願いながらことばを発している。とはいえ「人のため」なんて自負はみじんもなくて、私の生きざまとしてもっとも自然で爆イケなのはこれだと思うから、名乗りを上げてものを書いているだけだけれど。

 ただし、カミングアウトしてものを書きはじめると、ひとつだけ伝えるのが難しくなってしまうだいじなことがある。それは<当事者でなくても、あるいは当事者であることを公表しなくても、性的少数者について発言する権利はある>ということ。私がいくらこう言ってもポジショントークみを帯びてしまい、「ひららかがオープンリー・バイだから説得力があるんじゃん?」という印象はぬぐいきれない。

 橋本愛さんは、自身のセクシュアリティに言及しない立場から、特定のセクシュアリティの人々に(〈存在を等閑視する〉というかたちで)苦痛をもたらしかねない質問に対して異議を唱えた。この取り組みのすばらしいところって、性的少数者ではない人も、セクシュアリティを公表したくない人も、まねできるところ。だれもに開かれているところ。明日から使える金のフレーズです。きょうからでも、どんどん使ってこ。

 

質問の仕方を変えていった方がいいかな

 些細なことかもしれないけれど、「変えた方が」じゃないところに、橋本愛さんのあたたかなまなざしを読み取った。勝手にね。

 つまり、「私に質問をするときは、ことばづかいに気をつけて」というだけの閉じた話ではなくて、質問者に対して、「これをきっかけに、これからもずっと、ものの見方を新たにしていってね! そうした方がいいかなと私は思いました!」というエールをおくっているんじゃないかなって。

 答えにくいことをたずねたファンに対して、未来がよりよくなることを願ってくれるの? 愛だね。愛だよ。

 

 ラブいポイントは以上です。それでは、おしまいにもうひとつ。上に引用した、橋本愛さんのことばを、「橋本愛さんの地頭のよさ、人柄、機転エトセトラエトセトラがにじみ出ている」と評して片づけたくはないということを、ここに書きとめておく。

 橋本愛さんは、上の質問を投げかけられたのと同じような場面に幾度となく遭遇して、そのたびに戸惑ったり傷ついたり、後悔したり、無力を嘆いたりしてきたのではないかな。悩み、苦しみ、考えに考えぬいて、いまの橋本愛さんがあるのではないかな。

 あの投稿を一読して、「ずっとずっと考えてきた人の答えだ」って直観した。それが嬉しかった。私も考えつづける。

脱ぐ

 あっけなく痩せてゆく肉体が自身のものとは思われないということへの戸惑いを綴って、数ヶ月が過ぎた。その後まもなく体重の減少は止まった。人体のホメオスタシスには目をみはるものがある。

 私はようやく、私のからだに実感をもちはじめることができた。鏡に映し、熱い湯を浴びせ、伸ばして揉みほぐし、どうやらこれが私であるらしいということを、私に教えた。いまでは、かつての体型を思い出すほうが難しい。そんなものだ。慣れること、忘れることも、人体に備わった機能なのだろう。

 現在は、この体型が気に入っているといってさしつかえない。鼻と顎、首と肩の線がここちよい。骨格がたくましいから華奢な印象はもたれないし、そもそも他人の目に明らかなほど痩せてもいないのかもしれない。肉体の主人たる私だけが、構成要素を削ぎ落としてゆくかのような悦楽に浸っている。

 痩せて嬉しかったのは、ショートヘアが似合うようになったことだ。ついでに、弦楽器や鍵盤楽器も(ただしこれは、より個人的な趣味にすぎない)。来月、美容院に行くときは、もうすこし短くしてもらう。髪を切ると、性別が脱色される気がして身軽になれる。

 私に「ロングヘアは女性の表象あるいは特権である」といった意識はまったくないということを、書き添えておきたい。ゆえに、かつては好んで髪を伸ばすこともできた。とはいえ、私に女性性を期待する周囲の誤読は避けられない。わが「女の命」とやらの艶めきを讃える人があり、私を慎み深いものと見誤って近寄り、口をきいてみれば怯んで去ってゆく人があった。

 そのことに辟易して、脱いだ。ロングヘアを。アイシャドウとリップティントを。チャンキーヒールのパンプスを。私の場合、もとから強い愛着を抱いていたわけでもないから、惜しくはなかった。もし、先入観に起因するなれなれしさや、たえまなく投げかけられる不躾な質問から身を守るために──よそゆきの見てくれのためだけにお気に入りを手放さねばならないとしたら、耐えがたいことだろう。

 私は長い髪とやわらかな肉を脱ぎ、二元論の文脈における性別からは脱色された外貌に近づいたと思う(私は「男装」をしたいのではない)。身軽になった私、私を美しいものと信じる私は美しい。しかし安堵するには早い。企みの半分も成し遂げていないのだから。

 私が真に脱ぎ捨てたいものは、他人の容姿にアイデンティティとの癒着を見出したがる態度であり、二元論それ自体である。だれもが好きに装う世界、ただ好きに装った姿がお仕着せの社会的コードに収斂されることのない世界を待ち望んでやまない。