ひらログ

ひららかのブログ

実家に帰らせていただきます

 じゅうぶん人口に膾炙しやがて辞書に収録されるとしても、私自身がつかうことはないだろうと(現時点では)見ている表現がふたつある。「関係性」と「〜させていただく」だ。

 「関係性」については、使用者のなかでは「関係」と明確に区別されており、意図をもって発せられているらしい。私はその現象を興味深く眺める。わが辞書には載っていないが、きらいなことばではない。

 「〜させていただく」のほうは、どうにも受けつけない。この作品に携わらせていただいて光栄です。接客時の会話は最小限に留めさせていただきます──そこにあって、必然とも必要とも思われない。

 すべての書きことばはラブとリスペクトをもって書かれていてほしい。明快な論理の筋は見えずとも、「ないとさびしい」「あったほうがきもちいい」くらいの思い入れとともに配置されていてほしい。「〜させていただく」からはそれすら読みとれない。私は、書きことばに関して、なくてもよいものはないほうがよいと考えるたちだ。

 「〜させていただく」は本来、相手の許可を得た上でなんらかの行為に及ぶ場面で用いられるべき表現だろう。したがって、相手から承諾や推奨のことばを受けた際の返答として「では、そのようにさせていただきます」というのは誤用にあたらない。しかし、多くの「〜させていただきます」は一方的に発せられる。司会を務めさせていただきます。資料を拝見させていただきました。

 使用者は丁寧さを演出したいのだろうか。私からすれば逆効果だ。ふたつの疑問が頭をよぎる。ひとつめ。私がいつそれを許可したのですか? ふたつめ。私の許可がなければ、あなたはそれをしないのですか? 濫用される「〜させていただきます」が私にもたらす印象は、押しつけがましさと主体性の欠如だけだ。慇懃無礼の最たるものといってさしつかえない。

 そんな「〜させていただく」をきわめて戦略的に用いた稀有な例のひとつが、「わたくし、実家に帰らせていただきます」だと思う。実際に言ったことも聞いたこともないけれど。これを、配偶者と争ったのちの捨て台詞と仮定しよう。なぜ「実家に帰ります」ではなく、あえて「帰らせていただきます」なのか? それは暗に「あなたがこの状況を招いたのだ」といいたいからだ。「実家に帰る」のが真の目的ではないからだ。

 社内でいちばん歳は近いがいちばん社歴の長い先輩に、腹の内を五割強くらいぶちまけた。(弊社は「日本人の足を美しく見せる」靴をつくって売っている。)

 自社ブランドの、私がやめるとしたら理由はこれってくらいきらいなところは、「日本人」を連呼するクソ雑さですね。「日本製」はいいですよ、そこに自信があるなら言ったら。ただ、国籍は関係なくない? って話ですよね。勤勉さも技術の高さも骨格も肌の色も、国籍に起因するもんじゃないですよね。たとえば、日本で生まれた人、日本で育った人、日本に住んでいる人、日本人を親にもつ人、日本語を喋る人ってそれぞれ別の概念なのに、その区別も考えないで、基本的には自分で選べない国籍ってものを持ち出す意味がないですよね。事実と合っていないしダサいしお客様を選んでいるみたいで感じ悪いです。

 先輩は私のいうとおりだと答えた。そのうえ、粗野な言動の含まれる指摘に対し、こころから謝意を表したのだった。先輩自身がブランドのコンセプトを立案したわけではないけれど、「なんの意図もなく、製造者の主張を鵜呑みにして、無知でそう表現しているだけだと思う」と推測し、「気づいてみたら自分が恥ずかしい」とまで口にした。

 私はこの人に対する信頼を取り戻しはじめた。残された問題は、この会社と仕事への愛着は回復しそうにないことだ。先輩は「言わなきゃいけないのもしんどいだろうけれど、代表も企画も『言ってもらえてありがたい』と受け止めるよ。直さなきゃいけないところだと思う」と今後について説明した。私のいないときに代わりに伝えてもよい、と提案してくれた。

 でも、このブランドが好きじゃないから、どこがいいのかわかんないから。どこがだめってのは言えても、ここを変えてよりよくしたいってのは、ないです。これは、だれもなにも悪くないことで、私個人の都合です──ここまで発声したところで、ぶちまけすぎた、という気がしてきた。けれど先輩はどこまでも親身だった。私が好き勝手に喋りつくしたあとで、自身の抱える課題を打ちあけ、私たちは似たようなこと(それも多岐にわたる)で悩んでいるのだと確認した。

 「日本人がどうこうって書いたのは、やめていった人やお客さんも『ん?』って思ったかもね。言わないだけで。気づいて言ってくれるのが頼もしい。ありがとう」。そんな感想を聞きながら、私は尊重され、愛され、恵まれているのかもしれないとおもわないでもなかった。そして、それ以上に当惑していた──ほんとうに、悪意はみじんもなく、無知というだけなのだな。疑問をもたなかっただけなのだな。自席の外周に厚い壁を見た。先輩にも見えただろう。

 話せば伝わる人たちなのだ。それは以前からうっすら感じていた。いっぽう、私には、ことばはなくても、信じるものや憎むものをおおむね同じくする友人や恋人がある。厚い壁の内側に招きたい最愛の他人たちを知っている。話してみてようやく伝わるという状況に、いかなる評価を下すべきか? 互いに話さなければ伝わらないことがらが、もっと別の、取るに足らないものならよかったのに。

友人としたいこと

王将に行く

地元の王将がいつのぞいても混雑しており、単独で乗り込むと肘がぶつかりそうなほど狭いカウンターに通されるリスクが高くて入れない(私は自分でもうんざりするくらいパーソナルスペースが広い)。ふたりがけのテーブルで顔を見ながらごはんが食べたい。いろんなメニューをちょっとずつ分けあえるとうれしい。

甘いものを食べ、ほっぺたを落とす

「ほっぺたが落ちる」経験をしたことがない。おいしいものを食べたことはもちろんあるが、頬が落ちる感覚は知らない。「どういう由来のある比喩なんだろうね」と妹になにげなく話しかけたら、「甘いもの食べたらほっぺ落ちるじゃん」と力強い返答があった。どうやら「ほっぺたが落ちる」とは突飛な空想ではなく、実体験にもとづく慣用句らしいのだ。私だってほっぺたを落としてみたい。メープルシロップとバターだけのせた、しっかり焼き色のついたパンケーキとかがいい。ほっぺ落ち経験者を求む。

散歩する

なつかしい都心をひたすら歩きたい。新宿御苑とか、上野公園とか、神楽坂とか。それか海。海にとくべつ愛着をもっているわけではなく、わけわかんないくらい規模の大きいものと対峙したときの、おもわず脱力して笑みがこぼれる感覚が好きなのだ。そういうわけで、国道沿いなんかを歩くのもよいけれど、おしゃべりがかき消されてしまうからふたり以上には向かない。となると、やはり水か緑のある散歩道が望ましい。寒い気候だけが得意なので、近いうちに出かけたい。「都心」と書いたところで、ふいに漱石山房記念館が脳裏をよぎった。

美術館やミュージカルに行く

「まとめるなよ、別物じゃん」ってところだけれど、芸術にうとい私のありかたを説明するには、この雑なまとめかたがちょうどいい。つまり、どっちもあんまりわかっていないのだ。絵画、写真、舞台……書かれたもの以外に関して、リテラシーが低いという自覚がある。解説を読んでようやく映画の筋書きがのみこめるというありさまだ。だから、ひとりで行くより、ほかの人の感想が聞きたい。案内人がほしい。といっても、高度な解説は求めない。同じ装置のなかに入って、出力される情報がいかに異なってくるのか、ともだちは目と耳をどこに向けたのかを確かめたい。

好きなものの話を聞く

人間でも、その他の生きものでも、場所でも作品でも。話を聞かせてもらった私は「好きなんだなあ」という感想をもち、「好きなんだねえ」と相槌をうつだろう。好きなともだちが好きなものについて話す時間が私は好きだけれど、話すほうはおもしろいのかわからない。おもしろがれる人は話してほしい。会話を途切れさせないとか発展させるとかいったホスピタリティがマジで皆無なのを、ともだちは「聞き上手だね」などとあざやかに換言してくれる。ラブい。会いたい。

学生のころ関心をもっていればよかったと感じるトピックを出しあって「あ〜あ」と嘆きつつ、いっしょに良書を探す

これやりたい。あ〜あって毎日となえてる。なるべくいろんなともだちとやりたい。存在そのものを認知しなかった問いにぶちあたることが期待できる。私はいまのところ天皇制とその神聖視やタブー視、モノリンガリズム、反出生主義の定義および自身の立ち位置、歴史修正主義とどう向きあうべきか、人がレイシズム陰謀論に傾倒するメカニズム、じゅうぶん人口に膾炙したことばの「誤用」をどう受け止めるべきか、などにうっすら関心がある。先生がいるうちに勉強しておけばよかった。この「あ〜あ」感もうつしあって傷を舐めあいたい。そこは必須じゃないけど。

恩師に会う

ひたすら先延ばしにしているが、これをせずには死ねないとこころに留めていることがらのうちのひとつだ。日文のともだちはぜひ。

痩身

 十年以上ぶりに体重が五〇キログラムを下回って、一ヶ月くらい経つ。痩身の同級生や妹に強烈な劣等感を抱えていた高校生の私が、どれほど望んでも得られなかったからだつきを、二五歳にして実現した。そして、そのわりには、なんの感慨もない。

 ひとり暮らしをはじめると、体重が自然に減りだした。二ヶ月に一キログラムくらいのペースで、ゆるやかに。体調は以前よりよくなったくらいだから、栄養不足の心配はないだろう。私はなんの苦労もなく、かつて憧れた痩せ型になった。

 標準体重の範囲内で、重いほうから軽いほうに移っただけでも、外見には驚くべき変化があらわれるものだ。「骨格によって決まっているから変えられない」とばかり思っていた肩幅が、こころもち華奢になった。肩に見えていたのは腕の肉だった。胴は薄く、膝関節から上は平坦になった。鼻と顎の線は鋭くなり、顔が小さくなった分だけ、相対的に目が大きくなった──これは嬉しかった。ただし、なめらかな手の甲や腰まわりは、痩せる前のほうがうつくしかった気もする。

 痩せた私が直面したのは、私の肉体と容姿、そして欲求さえも、私のものであって私のものではないという事実だった。つまり、これまでの私は、私自身の食欲のみに従って食べていたのでは決してないということだ。

 体重五〇キログラムを切るまでに、食事制限も運動も一切していない。食べたいものを食べたいだけ食べていたら、少しずつ痩せた。かつて私の標準体型を維持していたものは、大人たちの庇護と愛情と、「出されたものを残してはならない」という規範意識にほかならなかったらしい。食べることは好きだ。食べてきたものはおいしかった。けれど、大量に食べることや、他人の食べ残しを引き受けること、満腹感が好きなわけではなかった。少し苦しいときもあった。食事のあとは少し苦しいものだと思い込んでいた。

 完食を強制する家庭で育ったわけではない。しかし、きまじめで感じやすい子どもだった私は、教科書や広告で見聞きした「残してはならない」を内面化し、からだにとっての適量という観点をもたなくなっていた。そこにあるものを食べつくすだけだった。規範意識と欲求の癒着が完治したとはまだ思えない。ひとりの家には、買うか作るかしないかぎり、食べるものがない。「あるから食べる」が「ないから食べない」に姿を変えただけということもありうる。それでも、苦しくないだけ、よくなった。

 いまは、からだが軽い。それに、なにより、鏡のなかの自身と目を合わせるのが楽しい。こんな日がくるとは願ってもいなかった。高校生の私は、私の顔がきらいでしかたなかったから。写真を撮られることは極力避け、卒業アルバムはいちども開かずに処分した。

 なぜだろう。痩せはじめたことで、たしかに顔立ちを気に入ることはできたのに、痩せたからだを喜ばしいとは思わないのだ。かといって、また太りたくもない。いまはただ、私の肉体は私のものであって私のものでなかった──私の体型を決定していた要因は、私自身の欲求に動機づけられた行為だけではなかった──という事実に、放心しているような状態だ。

 本来の私は少食ぎみだったらしい。いな、それも確実ではない。怠惰ゆえに、「食べたい」を「作りたくない」「眠りたい」がかき消しているだけかもしれない。お金があって飲食店が夜遅くまで開いていれば、毎週末、贅沢な夕食に舌鼓を打っただろう。このような、自身の意思の不確かさにも戸惑っている。私の嗜好や習慣を決定するのも、また私自身ではなかったというのか。

 だから、痩せたところで、嬉しくも悲しくもないのだ。どこかひとごとだ。平たくいって、私のからだに起こったことは、「実家が裕福で責任感が強いからたくさん食べていた」が「貧乏でめんどうくさがりだから痩せた」に横滑りしたというだけだ。どちらかといえば、私のからだをかたちづくっていたのは私ではないらしいという事実のほうに、打ちのめされている。

 このまま痩せつづけてしまわないかが不安だ。痩せないために食事の量を増やさねばならないとしたら、おっくうだ。痩身の人を「細いね」と評するのがどれほど無礼で酷なことか、身をもって知った感触がある(むろん、当人の自己評価や当人との関係によっては許容されうるが)。私は太りたくて太っていたのではないし、痩せたくて痩せたのでもない。よほど親密な相手でないかぎり、みずからの意志により選びとったわけでもない体型に言及されるのは、内容にかかわらず不本意だ。

 ふと、筋力トレーニングに興味が出てきた。「健康・体力増進」「自分を好きになる」とかいった前向きな希望はここにない。「どんなからだになりたいか」さえ、まったくわからない(書きながらこのことを自覚して、たいへん驚いた)。ただ、からだを鍛えることは、からだを自身の管理統制下におくことと同義なのではないか──そう考えたのだ。私は私を所有したい。私は私の意志にもとづく行為によって肉体を変質させる経験をしたい。私のものでありながら私のものでないからだに、現実感と関心を覚えてみたいのだ。

私の尻は私が叩く

 好きで好きで大学に通っていたものの、経済的な事情や進路に対する不安やみずからの能力の限界を悟ったことなどにより、学部卒業後ただちにまったく適性のない集団生活に身を投げた私のごとき会社員の大半は、折にふれ「大学時代のほうが意欲を燃やして生きていた」という事実に直面する。

 でもさ、二二歳で文学学術院を出て、先月から二五歳。そろそろ、根深い「大学院に行かなかったコンプレックス」と生涯をともにするのも癪だという気分になってきた。で、じゃあ、どうして大学が楽しかったのか検討しようってところまで、ようやく進むことができた。きょうはその話。

 大学生活が楽しかったのは、関心の対象(当時の私の場合は、日本の近現代文学)に接するいとなみに、多くの時間を費やせたからだと考えていた。それに、私がだいじだとかおもしろいとか感じるものに同じく興味を示す友人と、一流の専門家、膨大な資料に囲まれていたから。そして、それだけじゃなかったことに、けさ突如として気づく。

 大学は教育機関だから、カリキュラムがある。したがって、課題(卒業論文はその典型だ)と期限(レポートの締め切りも、四年で卒業するという取り決めも)と評価(イコール成績)がきわめて明瞭だ。だからがんばれたんだな、と最近になって思う。かりに、卒業所定単位数がもっと少なかったら? 成績が合格と不合格の二種類だけだったら? 私がキャンパスに顔を出すことはほとんどなかったかもしれない。

 私を地下書庫に駆り立てたものは、知的好奇心と学友と恩師、それから──課題と期限と評価の存在であった。このことには少なからず落ち込んだ。というより、気づくのが遅すぎたことに。わが尻をお叩きくださる指導教官に導かれ、辛くも卒業した怠惰な学生にすぎないくせに、みずからの内なる欲求に衝き動かされ、読み書きに耽っていたかのように記憶を改竄していたのが恥ずかしい。大学は楽しかった? あたりまえだ。決して安くない授業料には、学習計画立案代行費とモチベーション管理費も含まれていたのだ。

 尻を叩かれてはじめて走り出す人間など、ありふれていることはよく知っている。たいていの人間は怠惰だ。予備校や資格スクールが繁盛するのは、人並みに怠惰な人間のおかげだ。私は怠惰であり、多少の怠惰は必ずしも悪ではない。けれども、このしんから怠惰な魂がすべての元凶だとしたら──修士課程の幻がいまだ脳裏をかすめ、会社秒でやめ太郎をくりかえし、「生活に飽きた」などという荒寥たるツイートを産むのだとしたら──よりよく生きのびようとつとめる私を怠惰な私が殺す前に、発想の転換を試みねばなるまい。

 「怠惰」とだけ書きあらわすのは不正確だろう。課題の提出状況と成績表だけを見れば、私は申し分なく勤勉な大学生だった。でも、そこじゃないんだ。これは「それって、他人から出された宿題でしょう?」という話なんだ。私の改めるべき怠惰は、つまり、モチベーション管理を外部に委託する姿勢だ。もはやおまえは学生じゃない。にんじんをぶら下げ、尻を叩いてくれることを、周囲に期待するな。元・会社秒でやめ太郎よ、仕事の目標を立てよ。それでもつまらないなら、会社をやめてよい条件をみずからに明示せよ。

 会社をやめられるのは、収入を確保する別の方法にありついたときだけだ。当面は、この職場にとどまるほかない。ここでやることを、自力で探そう。そう思い立った私は、コンプラセキュリティゆるふわガバガバの弊社で、だれもやらない情報システム部門の業務を買って出た。買って出たはよいが、情シスのことはなにも(弊社ではだれも)知らない。それで「ITパスポートを取得します」と宣言した。資格試験は好きだ。受験料とひきかえに尻を叩いてくれる。

 根本的に仕事をしたくないわけだから、情シスだのiパスだのにもそのうち飽きがくるに違いない。いまだって、「よし! やるぞ!」という気持ちになりきれてはいない。それでも、すべきことがないより、いくぶんかましだ。習得した知識や技術が、ほかの逃げ道を開いてくれるかもしれないし。しばらくここで一日のうち九時間を過ごすことは決まりきっている。だったら、新しいこと、ほかのだれもやらないこと、勉強すべきことを、ひねり出そう。

 三社目にすべりこんだのは、未成熟な零細企業だった。ありとあらゆるしくみがゆるふわのガバガバだが、それを変える自由もある。もういちど倉橋由美子を読むための余暇もじゅうぶんにある。一社目のような、新入社員によるシステムの変革などとうてい望めない、古く巨大な組織とは違う。二社目のような、従業員に一個の人格があることを認めない代表の支配する監獄とも違う。

 私はある種の希望をかきたてながら、私の尻を叩く仕事をはじめようと決心した。