ひらログ

ひららかのブログ

絶対音感の功罪

 私は絶対音感をもっており、ときにそのことで不便を強いられており、また絶対音感が過剰に称賛される風潮をつねづね疑問視している。という話をします。

 ちょちょいと調べたところ、絶対音感というのは〈ある音を聞いたとき、その高さを、他の音との比較によらず単独で認識する能力〉らしい。その精度には個人差があり、私のはとくべつ鋭くも鈍くもないと思う。

 絶対音感ちょっとあるよ、くらいの人だと、ピアノの音がひとつだけ鳴っているときは高さがわかるけれど、和音はわからないとか。フラットやシャープがつくと判別できないとか。音程のはっきりした楽器や歌声ならわかるけれど、金属音や話し声はわからないとか。そんな感じ。

 私の場合は、ピアノなら和音でも聴きとれる。打楽器以外の楽器はだいたいわかる。金属やガラスを叩いたときの澄んだ音、ドライヤーや掃除機の作動音、サイレンやアラームなど機械音もわかる。話し声は、あいさつ程度なら判別できるが、通常の会話のスピードには追いつかない。雨の音はほとんどわからない。布が擦れる、紙を丸めるといった生活音はまったくわからない。わかるときの精度は、半音のさらに半分くらいまで。

 精確な絶対音感の持ち主になると、ヘルツ単位であらゆる音の高低を認識するらしい。私には未知の世界だ。それでも、否応なく流れこんでくる情報の多さ、耳と頭の休まることがない苦痛は、ぼんやりと想像できる。この点については、またのちほど。

 「音の高さがわかるってどんな感じ?」に答えよう。この点も個人差はあるが、私の場合「ドレミファソラシ」のカタカナが脳裏に浮かぶ。私の音感は、ピアノを幼少期から習っていたことで自然に身についたものだ。だから、そこで採用されていたイタリア語の音名と音の高さとが、分かちがたく結びついている。日本国内でピアノを習っていた絶対音感の持ち主には、ほとんど「ドレミ」が聞こえるんじゃないかな。

 と、ここまでは書きたい内容そのものではないが、今後のために必要な説明でした。長くなった。絶対音感の精度には個人差がある、ゆえに「稀有な特殊能力」でもなんでもない、とだけいいたかったのですが。

 絶対音感をもっているメリットってなんだろう? ピアノを習っていた身としては、譜読みがちょっと速くなることだろうか。楽譜をざっと見れば曲の姿が思い浮かぶし、音源があればなお心強い。あとは、つられずにハモれるとか。ポピュラーな曲をいちど聴けばメロディくらいは鍵盤で再現できるとか。バンドを組んでいる場合は、耳コピが苦にならないとか、チューニングのずれに気づきやすいとか。そんなもんか。そんなもんです。それだけ。

 これらってそんなにすばらしいことだろうか。音楽の道に進みたい人にとって、不可欠の能力だろうか。私の答えはノーだ。

 絶対音感のデメリットをふたつ紹介しよう。だいいちに、音楽が聞こえるかぎりカタカナの「ドレミファソラシ」がたえず流れこんでくるという感覚そのものだ。これが、うるさい。

 私は自室で作業に集中できないくせに騒音にも過敏という困った体質で、カフェでイヤホンをしながら高校数学をやりなおしたり文章を書いたりする。イヤホンをすると、周囲のざわめきは遮断されるが、こんどは音名の排列が頭を占め、思考を妨げる。ベルガマスク組曲パスピエを聴けば、うつくしき音の粒にともなって「ファドラドソドシドラファドファシファレファ……」が鳴りだすのである。耳慣れた曲ほどやり過ごしやすいので、勉強をがんばりたい日はお決まりのドビュッシーを選ぶことでこの問題に対処している。

 ふたつめのデメリットは、からだに染みついた音階以外を、耳が勝手に異物扱いしてしまうこと。多くの場合、日本の家庭用ピアノは〈A=442Hz〉に合わせて調律されるらしいから、私の耳もたぶん〈ラ=442Hz〉でできている。〈ラ=442Hz〉に調教されたといってさしつかえない。

 音楽の世界に唯一の正解は存在しない。ジャズやポップスでは〈A=440Hz〉のチューニングが一般的だという。さいわいにも私の耳は2Hzの差異に気づくほど敏感ではないが、アーティストがチューニングをわざと上げ下げしたり、天候によって楽器の鳴りかたが変わったり、歌声はなにしろ人間が出すものなので楽器よりひどくぶれたり、これまたわざとずらしたり、といった状況はありふれている。すると、幼少期に叩き込まれた音階から大きく外れた音が聴こえてくる。

 そんなとき、私の感想は「なんか高くね?」か「なんか低くね?」につきる。頭ではわかっているのに──ぱきっとブライトな響きにしたいから高めに当てているのだろうな、とか、レトロなラジオの雰囲気に合わせてけだるく低めに歌っているのだろうな、とか。

 それでも、耳は「きもちわるい」「ちがう」と訴えてくる。相対性理論の「人工衛星」をひさしぶりに聴いたとき、大好きな曲なのに「ボーカル低くね?」で頭がいっぱいになったのはほんとうに悲しかった。ここまでくると、特技というよりアレルギーだ。

 日常的に不便を強いられるのは、ひとつめのデメリットのせいだが、私を深く絶望させるのはこのふたつめのデメリットのほうだ。なんという皮肉だろう。音楽が好きで、音楽に親しんだ結果として身についた能力が、音楽鑑賞のよろこびに水を差すとは。絶対音感はときに、私の感性を貧しくする。音楽のゆたかなディティールやニュアンスを捨象し、十二音技法の型に押し込め、そこからはみ出したものには不正解の烙印を押す。

 「絶対音感があるってどんな感じ?」とたずねられた経験は少なくないが、うまく答えられたためしがない。私は物心つくより早いうちに絶対音感をもっていたから、「絶対音感がない」ってどんな感じかわからないのだ。たずねたい。絶対音感がないってどんな感じ? 半時間くらい音感をなくす薬があったら飲んでみたい。

 私の絶対音感は偶然の産物にすぎず、ときどき有効活用してきたという実感もあるから、疎ましく悲しい側面は大きいけれど、強い憎しみを覚えるほどではない。でも、日本の音楽教育における、絶対音感偏重(崇拝ともいう)、おまえはだめだ。とくに、子どもの意思と無関係に絶対音感を身につけさせようとする親、いますぐやめろ。消費者の憧れや無知やコンプレックスにつけこんで「子どもの絶対音感を育てる」とかいった書籍を売りつける専門家気取りはもっと有害だ。おファックですわ。

 私のごとき一般人はもちろんのこと、音楽の道に進む人にとっても、絶対音感は必須の能力ではない。邪魔になる場面さえ少なくない。ちなみに、鍛えるべきは相対音感──基準となる音との比較によって、音の高さを認識する能力──らしい。

 私もほしいよ、相対音感。幼少期を過ぎても育てられるらしいし。トレーニングしようかな。でも、絶対音感があると、なくても済んじゃう、たとえるなら、考える前に答えが見えちゃうわけだから、鍛えられないし身につかない。おしまいです。

 絶対音感そのものは、善でも悪でもない。私からすれば、便利なときと不便なときがあるだけだ。ただ、絶対音感のとらえかたを誤っている人が多すぎるように思う。絶対音感は、特殊能力でも音楽家の必要条件でもない。たんなる体質のひとつだ。絶対音感がないことを気に病んでいる人、子どもや生徒に絶対音感を身につけさせようとしている人は、不毛だからやめよう。絶対音感と音楽の才能に相関はない。

 どうか、この国の絶対音感信仰が解体されますよう。いつの日か、私の耳が、やくしまるえつこのささやき声に心安く寄りかかれますよう。

誕生日おめでとう

 五月七日。二六回目の誕生日を迎え、二五歳になった。きのう「一日早いけれど」と職場の人がくれた焼き菓子や、日付が変わってすぐに届いた友人からのメッセージが、私にそのことを知らせる。周囲から教えてもらうまですっかり忘れているものだから、二六回目にして、いまだ新鮮な驚きに満たされる。

 二五という数字は好きだ。二四よりも硬質ながら安定感を醸しており、また透明なかがやきをも感じる。二四のもつ調和の感じはたしかに美しいが、実用性に富む反面、その柔軟すぎる性格のせいで鮮やかさに欠けるようにも思われる。

 一二歳のころは一二が気に入っていた。ひさしぶりに、好きな数字と年齢が重なる。「ニ四は一二の二倍なのに、好きじゃないの?」と、二四が好きだという最愛の宇宙人は不思議がったけれど、二倍した結果はまったくの別物だから関係ないのだと私は答えた。

 二五は好きだ。二五は冷たく、明るくも暗くもなく透きとおり、ゆるぎない。私にはそう見える。私はゆたかな共感覚の持ち主ではなく、「見えない」数字のほうが圧倒的に多い。そんななか、二五には鉱石のごとき質感を見出せるから、きっとなにか特別な数字なのだ。これは印象や直観、あるいは趣味の域を出ない話だけれど。

 ついに四半世紀を生きのびた。在学時の目論見より遅れてひとり暮らしをはじめた先月から、私は健康そのものだ。過去のいかなる時期と比較しても、はるかに溌剌としている。生きていてよかったと思う。そうでなかったのはほんの数年前のことなのに、思い返したところで、当時の感情を体験することはもうできない。

 生きていてよかったとほんとうに思う。どうやら私達をスポーツの祭典に捧げる生贄とでもお考えらしいこの国にあって、閉塞感と憤りに抱かれながらも、生きのびる、生きてやる、と思う。しかし、〈生まれてきてよかった〉が私にはわからない。誕生を祝福される意味ものみこめない。誕生日とはなにか、ずっとつかみかねている。当日まで記憶しておくことが困難なのは、きっとそのせいだ。なぜするのかわからないことをするのが私はとても苦手だ。

 それでも「おめでとう」のひとことは嬉しく、最愛の宇宙人とは贈りものをねだりあって五回目くらいになる(正確な回数は忘れた)。誕生日を祝われるのは、嬉しい。誕生日の当日がとりわけ重要とは感じられないが、私は忘れている私の記念日に、私を思い出す人のあることが嬉しい。私のいう「誕生日おめでとう」は、これまで生きのびたことへのねぎらい、これからも生きてゆくことおよび生きてゆく世界が幸福であることへの祈り、ともに生きることへの喜び、などに翻訳されたい。

 敬愛する友人からおくられてきた、短い「おめでとう」にも、きっとさまざまの祈りがこめられているのだ。思慮深い人だから、期待が強制に転じないように、多くのことばを知っていながら多くを語らない。祝福をいっしんに浴びて、いまのところは二六歳の誕生日を迎える意欲をしずかに燃やしている、と私からこたえたい。

 誕生日は休日にならないから、大勢の他人たちにとってはなんら意味をもたない。その人のいま、ここにあることを喜ぶ人々にとってだけ、恥ずかしげもなく祝福のことばをおくることができる絶好の機会としてきらめきだす。二五歳、おめでとう。誕生日おめでとう。

遠距離恋愛

 最愛の宇宙人が県外に引っ越した。大学院を卒業したてのほやほやで、入社式を間近に控えている。私のほうは今週末に実家を出る。早くみずからの稼ぎで食べてゆきたくて──世帯主の扶養を脱したくて──学部卒業後の進路を就職としたはずなのに、ひとり暮らしをはじめるタイミングが同級生の彼とぴったりいっしょでウケる。ウケない。二年間で二度も無職になるとは計算外だった。まあまあ、進学したら実家を出るのがもっと遅れたかもしれないし、これが私の最高速度。オーライ(このような過去の選択を正当化する防衛反応をあらわす古いことわざに「酸っぱい葡萄」があります)。

 ここ実家は、職場まで二キロ、引っ越し先までは三キロくらい。同一市区町村内の転居って気楽だ。そうそう、詐欺まがいの手口を使う仲介会社に出くわした話は、無事に引っ越しが済んだら書くかも。

 そういうわけで、私と最愛の宇宙人とは当面いわば遠距離恋愛の関係にある。が、この呼称が私はたいへん気にくわない。なぜだろう。

 ロマンチック・ラヴ・イデオロギイの臭気に耐えかねるのかな。結婚までのつなぎ、みたいな。もうひとつは、「遠距離」は一種のアレンジあるいはバリアントにすぎず、そばにいてこそ恋人、同居という形態こそマジョリティでありスタンダード、って前提が根っこにあるせいかな。「棋士」に対応する「女流棋士」、「恋愛」に対応する「遠距離恋愛」、みたいな。わかんないや。ただ、なんとなく、つまんない。説明の手間を省くのに適しているから人口に膾炙したのだろうけれど、自身の口からは発したくない。

 「遠距離」まではわりと言っちゃってるけど、「遠距離恋愛」って、ちがう。ちがう? なにもちがわないんだけどさ。私と彼とがしていることは、こうあるのは、「遠距離恋愛」なのか? じゃなかったらなんなのってきかれたら、なんでもないんだけど、なんかやだ。他人たちが使うぶんにはいっこうにかまわないし、いっさいの抵抗も違和感も覚えない。たんに私が私たちをそう形容するのはいやだ。

 あるいは、恋愛関係にある人を、〈恋愛関係にある人〉の枠組みに押し込めるのがいやなのかもしれない。私も彼も、恋愛にとくべつ価値を置いているほうではないから。「遠距離恋愛」って、「恋愛」の響きが強すぎる。なまめかしくにごってとけあう複雑な和音の、高いところだけ拾っちゃうスピーカーの感じがする。

 でも、いい。もっとふさわしい代わりのことばを探すつもりはそんなにない。ふたりのあいだでは、四年あまりそうしてきたように、依然として名前を呼びあうだけだ。私たち、引っ越しおめでとう。

光の糸

 会わない人のことは忘れるいっぽうだ。高校以前の友人は、数えるほどしかない。打算的に選別を試みているとか、過去を清算しようとつとめているとかいうわけではなくて、たんに記憶領域が貧しいのである。顔と名がおぼろげになるのと、声やしぐさが輪郭を失うのとは、おそらく同時に進行する。そのあとも、友人や恩師をまぶしく見上げていた事実は頭に残るものの、その人のまぶしさを偲んだところで、当時のようにまぶしく感じることはない。

 あっけなく忘れるものだから、思い出す手続きも簡便だ。ばったり会ったら、はっきりときらって別れていないかぎりは、たちまち嬉しさがこみ上げて、その場であすの約束など取りつけてしまいたくもなる。過ぎ去った年月が障壁となって自然にふるまえない、という感覚は身に覚えがない。会わなかった空白期間、その人の記憶があんまりきれいに欠落していると、想像していた姿と実際との落差というものが存在しえないから、ぎこちなくもならないのだろう。かつての同級生から食事に誘われた日は、部屋の隅で小躍りした。案外、私は、他人を厳しく拒絶する人間でもないのかもしれない。

 忘れかけていた人から連絡があると、ありがたいな、としみじみ思う。私にふたたび関心をもったことも、またその関心を示してくれたことも。ときどき、私をとりまくほとんどすべての人間関係が、相手の意志のみによって継続していることに気づく。あの一通のメッセージは光の糸だったのだ、そんなふうにはっとする。

 私には、もらって喜ぶくせに、あげないきらいがある。「去る者は追わず」とでもいえば聞こえはよいが、呼びとめられたら、肩を叩かれたら嬉しいのに、みずからそうすることはまれだ。声をかけたいからかけてきただけでしょう、したいからしてくれるだけのことでしょう、と驕っている。こんなに根が怠惰でも、他人たちとのあいだにはりめぐらされた糸が、ひとつ残らず切れてしまったことはない。ありがたいな、とやはり思う。

 私は妹が好きだ。口が悪い人間のなかで、好きなのは妹だけだ。私たちの仲のよさは、両親も級友も感心するほどだった。妹は昨年の夏に実家を出た。あれほど仲のよかった妹を、私はすっかり忘れて過ごした。

 妹は私を忘れなかった。私の引っ越し先が決まるまで、あれこれと母に質問をしたらしい(私を心配するとき、妹は私に連絡をよこさない)。新居の住所を報告したところ、「引っ越しを手伝いたい」と返信があった。妹が出て行った朝、私はひとり自室で寝ていたのに。

 私は心底驚いた。私は妹が好きだが、妹のほうではとうにそんなふうではないと決め込んでいたから。傍若無人と見えて、内心ではだれよりも家庭内を流れる大気に敏感であったに違いない妹は、肉親を悪しざまにいう気難しい私を避けているのではないかと。違った。妹も私が好きだ。妹は私に光の糸を投げかけた。

 「あのときはありがとう」や「ごきげんいかがですか」を、稀少な旧友に差しだしてみても、悪いことにはならないのではないかな、と思いはじめている。

映画館にはひとりで

 今月は自室で映画を四本観た。『お嬢さん』、『コンテイジョン』、『パラサイト 半地下の家族』、『ゆれる人魚』。『お嬢さん』以外は、最愛の宇宙人が「おもしろかったよ」と言っていたのを思い出して探してきた。

 おもしろかったよ。でも、おもしろいだけじゃなかったよ。そういう作品を、そういう作品だから、彼はおもしろいと評したのだろう。なんというべきか、たいへん刺戟に富んでいた。私からすれば「体調のよいときじゃないと、だめなやつ」だった。

 『コンテイジョン』は風邪っぽい夜に一〇分で中断して、翌日に息をはずませながら完走した。『パラサイト』はいっぺんに観た。いっぺんに観たのはよいが、どういうわけか胃がしくしく痛んで、横になりながら三時くらいまで目を開けていた。『ゆれる人魚』は比較的、心安く最後まで観た。おとぎばなしだと割りきれるからか、膝に猫を乗せていたからか。

 最愛の宇宙人は、映画をあくまで創作物として楽しめる体質なのだ。『ミスト』にも『ジョーカー』にも「おもしろかったね」のひとことだ。稀なる美点だ。一種の特殊な技能ともいえる。それにひきかえ、私は見聞きしたものに心身をゆさぶられやすい。ささいなきっかけで血の気を失う。おもしろい映画を観ているあいだは、きっとまっしろな顔をしている。よい映画は毒薬だから、一日一本より多く摂取しないようみずからを厳しく律している。

 感受性が強いんだね、とのフォロー(だろうか)を受けることもあるが、そのような自覚はない。たしかに、音や光やにおい、そしてことばには感じやすいが、人の顔や声からこころの機微を察するのはとても苦手だ。あまりにおおざっぱなたとえだが、かりに刺戟の種類を頂点としたレーダーチャートによってわが感受性を図示したなら、鋭角をもった、全体の面積としてはかなり小さい多角形を描くだろう。

 友人が、悩みを打ち明けたあとで「ひらちゃんは『ふうん』しか言わないから話しやすい」と、たぶんほめてくれたことがある。嬉しくないことはなかった。ほかにことばがいるものか、ふさわしいことばなどあるものか、とこれでも考えて聞いていたつもりだから。

 向きあって、あったかくておいしいものたちの湯気を浴びながら、この子も私もひとりだと思った。あなたが苦しいというとき、それを耳にする私は苦しくない。ふたりいて、ひとりとひとりだ、と思った。苦しみがとりのぞかれますことを、と願ってやまなかったのは本心だが、苦しみを代わりに引き受けることはだれにもできない。

 友人の身に降りかかったこと、友人がすべきと感じていることは、友人のものにほかならない。私は、私の悲しみを他人に私のごとく悲しまれるのがきらいだ。そのような態度を私に求める人があったとして、したくないことはできない。

 映画を観て目の奥を熱くしたり具合が悪くなったりするのと、共感能力に長けているのとはまったく別々の話だ。私が映画を観るとき、登場人物にこころを寄せはしない。応援も同情もしたことがない。

 ならば、どうして、「おもしろかったね」とほほえむ恋人の隣で顔面蒼白になっているのか。それは、映画のあらゆる精巧な装置に──光景に、状況に、関係に、時代に──みずからの体験をいやおうなく記憶から引きずり出され、のたうちまわっているからだ。けっきょく自分のことで頭がいっぱいというわけだ。そうして、みずからの生きねばならない現実の世界を描きなおす。映画を通して世界を見るせいで、映画を観る行為はつねに痛みと喜びに満ち満ちている。

 私は、観たい映画ならひとりで観たい。なにかしらの映画を観たいだけのときは、最愛の宇宙人と観たい。私の語る映画の感想は、私の身の上話そのものにすぎないから。むきだしで、退屈で、閉じられた感情の殴り書きを、温かいうちにすすんで恋人以外に差しだすほど私は外向的ではない。

 感想を語りあいたくて映画館に友人を誘う人の、少なくないことは知っている。遠い星ではそんな遊びが流行っているのだな、と思う。ほんのすこし憧れもする。私の殻はかたい。