ひらログ

ひららかのブログ

先輩の話

 デートの最中に、突如として吐き気を催したかと思えば、盛大にお腹を下した。ほどなくして回復し、最愛の宇宙人にいたわられたので、いつもどおり機嫌よく帰った。ひさしぶりのごちそうで、食べすぎちゃったな。そんなことばをこぼし、見送られた。週末の夜のことだ。

 翌朝、食べすぎが原因ではないらしいことに気づかされる。胃腸のはたらきがまったく改善していない。吐き気も腹痛もめずらしくないが、両方が何日もつづくとなると、感染症も疑われる。とはいえストレスによるものだろう、とか、どのみちこの体調では仕事にならない、とか、とりとめもなく考えながら、朝一番に内科を受診した。差し出された結果は、聞き慣れた「自律神経の乱れ」である。

 早退、週末、欠勤をはさみ、三日と半日ぶりに顔を出したオフィスで、私はあたたかく迎え入れられた。スタッフにも顧客にも、自身の取り組む仕事にも愛着を感じている。先輩ひとりと私だけになったとき、語気こそ弱々しいものの、からだのなかで堰を切ったように、私は話しはじめていた。自分でも認めたくないし、ましてや他の方に言いたくもないんですけれど、苦手意識をもってしまって、ぐあいが悪くなることもあって。代表に? そうです。

 「自分がいやがらせの標的にされているとかいうわけではなくても、他の人がつらくあたられているのを見聞きしたり、倫理観があまりにちがうことをいつも感じていたりするのが、苦しくなってしまって」と私はつづけた。先輩はいつもの軽快な、自信をにじませた明るい話しかたで、「わかるよ。私たちもそう思っているし、いままでもそれで何人やめたかわからないくらい。限界が来る前にやめるんだよ」と答えた。先輩は入社二年目にして、社内ではベテランの部類に属する。

 私は神経質で狭量だ。このことを意識しなかった日はない。ただただ合わないというだけで、「優良企業」を昨年ぬけだしたばかりだ。けれど、ここでも息がしづらいのは、そのせいだけではないらしい。先輩のことばが、自責といらだちのあいだに沈みかけた私をすくい上げてくれた。

 その先輩も「今年中にはいなくなるから」とへらへら笑っている。場を和ませようと、募る思いをかくして笑っているらしいことが読み取れる。この人をなくしたら私は折れてしまう、と直観が働いた。ひとりでも欠けたら、たちまち倒壊しそうな現場だから。

 単に、ゆくあてがないからここにいる。堪え性のなさにより逃げ出そうと、劣悪な環境に追いつめられようと、他人からみれば同じ早期離職者である。もはや一社目のようにはゆくまい。退職するなら、次なる収入源を確保してからだ。状況は試用期間からなにも変わらない。この仕事と同僚が好きだ。この仕事をやめるつもりでいる。

これから

 最愛の宇宙人から、内定の報告を受けた。納得と満足と安堵に包まれながら、私は彼を電話越しにねぎらった。自己アピールどころか自己紹介さえしたがらないような人だから、はじめのうちは面接をおそれていたようだが、彼の場合、誇大広告に走る必要はなかった。経歴と意欲を、一貫性をもたせつつ、ありのまま話しただけだ。

 ささやかな祝いの品を、これから郵便局に持って行く。彼のお母様にお手製のマスクをいただいたので、そのお礼も同封した。立体的な布マスクのつけごこちは快適で、無駄なくかわいらしい外観は市販品以上だ。彼のご家族は全員が彼いわく「趣味の人」なのである。ただし、その腕前は趣味の域を超えている。彼の就職先も「趣味」の音楽と関わりの深い企業だ。

 彼は、第一志望の、県外の企業で働くことになった、と母に言うと、「あとはあなたが近くに転職するだけだね」と返ってきた。(ここに「自身のキャリアを捨ててついてゆけ」という意図はなく、私がかねてより騒がしい首都圏を離れて在宅勤務することを望んでいるのをふまえた発言である。)

 お相手は立派な大企業に入られたのにとか、同棲前に結婚しろとか、うちではいっさい聞かれない。母は、私が健康で上天気でさえあれば手段は問わないらしかった。昨年も、子が無職になったことではなく、適応障害からぬけだせないことに、ひたすら気を揉んでいたのかもしれない。私のすこやかなることを願うなら、私のすこやかならざるときに狼狽したり憔悴したりするのをやめていただきたいものだが、母の観測しうる範囲にこの身を置くかぎり不可能だとすでにわかりきっている。

 私たちは、私が最初の会社をさっさとやめたので、ここ二年で計三回の就職活動を経験した。そのあいだに、というよりいつでも、意見に齟齬をきたすことはなかった。そもそも私たちは、互いの生活に意見したことがない。〈他人の人生に関して自身はずぶの素人である。また逆もしかり〉という恥じらいとも傲りともつかない感覚を、少なくとも私はもっているからだ。私には彼がわからない。私は彼を愛している。

 ゆえに、生活が一変することへの不安はない。恋人が入社半年あまりで無職になろうと動じなかった、そしてこの春みずからの望みを叶えてみせた彼だ。こんなにも怠惰なのに、なんとかやっている私だ。会えないあいだにも、未来図をでたらめに遊ばせて笑いこけている私たちだ。

勉強会

 二社目の就職先では週にいちど「勉強会」を催す。著名な経営者の自伝を輪読し、感想を語りあうというものである。なんの意義があるか。私にとっては、ここでの社会的通念とのチューニング、につきる。この土地の不文律を、肌にしみこませるための会だ。

 私はそこで、共感を覚えた細部に賛意を表す以外の発言をしないよう、注意を払っている。いな、かつては批判を述べもした。批判は異なる立場の否定を意味するものではないし、一定の結論を導く気もない。多様な声が集まればおもしろくなる、とただ思いついて、率直に述べた日があったのだ。

 その試みは挫折した──私はむずかる幼児よろしくなだめられた。「そういう読みかたもできるかもしれないけれど、いい話だと思う」「あと何年か生きれば変わるよ」といったぐあいに。私は失望し、これは読書ではないと判断した。賛意がほしかったからではない。議論がしたかったのだ。はじめから正解の示唆されている会話を、共感を示しあうだけの場を、勉強会とは呼ばない。

 怠惰で薄情な私が外に出れば、どういうわけかつねに、素朴で善良な、信仰のあつい人々に恵まれる。またもあたたかくしめっぽい土地に足を踏み入れたらしい。信仰それ自体はありふれた現象だが、布教にも熱心となると迷惑だ。

 もとより、転職活動に際して、ほんのひと飛びで最終到達点にありつける見込みの薄いことは承知していたし、いっさいのおもしろみを感じない仕事といえばこの「勉強会」のみ、すなわち一週間あたりわずか六〇分と大幅に短縮したのだから、転職はおおむね成功したといってさしつかえない。

 

2020.05.29 追記

 この「勉強会」を、退職者をも含めたすべての従業員が「中止にしてしかるべきだ」と考えている、と耳打ちされ、私の同僚に対する信頼は回復した。しかし依然として──ちょうど今朝も──熱心に教えを説く代表を取り囲んで、私たちは賛意を示しつづけることに貴重な六〇分を費やしている。

 従業員の敬虔な祈りが、不本意な演技であることは理解できた。とはいえ、その事実は私をじゅうぶんに慰撫しえない。窮屈な一定のふるまいをからだに染みこませ、ご機嫌とりに明け暮れる習慣から、解放されたわけではないのだから。

ピアスをおくった日

 高校時代からつきあいのつづいている友人と、きのうは半年以上ぶりに会った。彼女のほうから新年のあいさつをくれたのがきっかけだ。それまで、彼女は私の体調を慮り、また私のほうでは彼女が慣れない仕事のために多忙をきわめていると思い、連絡を控えていた。そして互いに、その必要はなかったのだと胸を撫で下ろしている。インスタントメッセージが届いた瞬間、感謝の念があたたかく胸を満たした。一五歳から数えて、何度目のことだろう。意志の軌跡としてふたりの関係がある。誕生日にイヤリングをくれたので、私からはピアスをおくった。三ヶ月遅れのプレゼントだ。彼女は顔いっぱいに喜びを浮かべ、その場で身につけてみせた。とても似合っていた。私たちはふたりそろってセンスがよい。

 適応障害に苦しんだ初夏をも含め、私はいつだって彼女に会えたなら嬉しがったはずだが、私の文章にあらわれる暗澹たる態度はしかし、思慮深い彼女を遠ざけたらしい。無理もない。健康なときさえ、「会ってみると、書くものから予想していたより、ずっとやわらかくて話しやすい」とは言われ慣れている。私にかぎらず、だれもが「ほんの一面」の集積だ。それにしても恋人は、私を隣に置いて、よくめまいを起こさないものだ。一日のうちに、軽口を叩き、疑似科学の喧伝に憤り、戦争におびえ、空気を含んだ羽が生えたみたいに小躍りする。

サボテン

 自宅の近所に、いまどきの都市部にはめずらしく、古い平家が三軒隣りあっていた。今月の半ばごろから、取り壊しが着々と進んでいる。両端は長いこと空き家となっており、中央の、最後の住人は春に亡くなった。当時、私は前職の研修で県外に出ており、外泊の許される土曜日まで、私の家族はその事実を伏せていた。葬儀には間に合わなかった。朝早くに連絡を受け、観光にくりだす同期生にかろうじて笑いかけ、声をあげて泣ける場所を探して歩きまわったのを覚えている。

 その人を仮に只野さんとしよう。只野さん邸の庭は四季を通じて緑色をまとっていた。花より草が目立ち、どれも手入れが行き届いてた。盆栽の鉢は家族が持ち帰ったらしいが、大人の背丈ほどもあるサボテンだけは抜けなかったのだろう。おとずれるものは虫と野良猫だけになった土壌で、ますます太ってゆくようだった。紅色の花がひらいた日、私は祖母とともにはしゃいだ。

 それも今月の半ばごろまでの話だ。週末、デートから帰ると、サボテンの姿がない。かつての庭は取り外した浴槽や便器の仮置き場になったのだ。いずれこうなることも、そうするほかないこともわかっていた。とはいえ、穴の塞がらないようなこころもちは、どうしようもない。その夜は風呂を熱めに沸かした。