ひらログ

ひららかのブログ

これから

 最愛の宇宙人から、内定の報告を受けた。納得と満足と安堵に包まれながら、私は彼を電話越しにねぎらった。自己アピールどころか自己紹介さえしたがらないような人だから、はじめのうちは面接をおそれていたようだが、彼の場合、誇大広告に走る必要はなかった。経歴と意欲を、一貫性をもたせつつ、ありのまま話しただけだ。

 ささやかな祝いの品を、これから郵便局に持って行く。彼のお母様にお手製のマスクをいただいたので、そのお礼も同封した。立体的な布マスクのつけごこちは快適で、無駄なくかわいらしい外観は市販品以上だ。彼のご家族は全員が彼いわく「趣味の人」なのである。ただし、その腕前は趣味の域を超えている。彼の就職先も「趣味」の音楽と関わりの深い企業だ。

 彼は、第一志望の、県外の企業で働くことになった、と母に言うと、「あとはあなたが近くに転職するだけだね」と返ってきた。(ここに「自身のキャリアを捨ててついてゆけ」という意図はなく、私がかねてより騒がしい首都圏を離れて在宅勤務することを望んでいるのをふまえた発言である。)

 お相手は立派な大企業に入られたのにとか、同棲前に結婚しろとか、うちではいっさい聞かれない。母は、私が健康で上天気でさえあれば手段は問わないらしかった。昨年も、子が無職になったことではなく、適応障害からぬけだせないことに、ひたすら気を揉んでいたのかもしれない。私のすこやかなることを願うなら、私のすこやかならざるときに狼狽したり憔悴したりするのをやめていただきたいものだが、母の観測しうる範囲にこの身を置くかぎり不可能だとすでにわかりきっている。

 私たちは、私が最初の会社をさっさとやめたので、ここ二年で計三回の就職活動を経験した。そのあいだに、というよりいつでも、意見に齟齬をきたすことはなかった。そもそも私たちは、互いの生活に意見したことがない。〈他人の人生に関して自身はずぶの素人である。また逆もしかり〉という恥じらいとも傲りともつかない感覚を、少なくとも私はもっているからだ。私には彼がわからない。私は彼を愛している。

 ゆえに、生活が一変することへの不安はない。恋人が入社半年あまりで無職になろうと動じなかった、そしてこの春みずからの望みを叶えてみせた彼だ。こんなにも怠惰なのに、なんとかやっている私だ。会えないあいだにも、未来図をでたらめに遊ばせて笑いこけている私たちだ。

勉強会

 二社目の就職先では週にいちど「勉強会」を催す。著名な経営者の自伝を輪読し、感想を語りあうというものである。なんの意義があるか。私にとっては、ここでの社会的通念とのチューニング、につきる。この土地の不文律を、肌にしみこませるための会だ。

 私はそこで、共感を覚えた細部に賛意を表す以外の発言をしないよう、注意を払っている。いな、かつては批判を述べもした。批判は異なる立場の否定を意味するものではないし、一定の結論を導く気もない。多様な声が集まればおもしろくなる、とただ思いついて、率直に述べた日があったのだ。

 その試みは挫折した──私はむずかる幼児よろしくなだめられた。「そういう読みかたもできるかもしれないけれど、いい話だと思う」「あと何年か生きれば変わるよ」といったぐあいに。私は失望し、これは読書ではないと判断した。賛意がほしかったからではない。議論がしたかったのだ。はじめから正解の示唆されている会話を、共感を示しあうだけの場を、勉強会とは呼ばない。

 怠惰で薄情な私が外に出れば、どういうわけかつねに、素朴で善良な、信仰のあつい人々に恵まれる。またもあたたかくしめっぽい土地に足を踏み入れたらしい。信仰それ自体はありふれた現象だが、布教にも熱心となると迷惑だ。

 もとより、転職活動に際して、ほんのひと飛びで最終到達点にありつける見込みの薄いことは承知していたし、いっさいのおもしろみを感じない仕事といえばこの「勉強会」のみ、すなわち一週間あたりわずか六〇分と大幅に短縮したのだから、転職はおおむね成功したといってさしつかえない。

 

2020.05.29 追記

 この「勉強会」を、退職者をも含めたすべての従業員が「中止にしてしかるべきだ」と考えている、と耳打ちされ、私の同僚に対する信頼は回復した。しかし依然として──ちょうど今朝も──熱心に教えを説く代表を取り囲んで、私たちは賛意を示しつづけることに貴重な六〇分を費やしている。

 従業員の敬虔な祈りが、不本意な演技であることは理解できた。とはいえ、その事実は私をじゅうぶんに慰撫しえない。窮屈な一定のふるまいをからだに染みこませ、ご機嫌とりに明け暮れる習慣から、解放されたわけではないのだから。

ピアスをおくった日

 高校時代からつきあいのつづいている友人と、きのうは半年以上ぶりに会った。彼女のほうから新年のあいさつをくれたのがきっかけだ。それまで、彼女は私の体調を慮り、また私のほうでは彼女が慣れない仕事のために多忙をきわめていると思い、連絡を控えていた。そして互いに、その必要はなかったのだと胸を撫で下ろしている。インスタントメッセージが届いた瞬間、感謝の念があたたかく胸を満たした。一五歳から数えて、何度目のことだろう。意志の軌跡としてふたりの関係がある。誕生日にイヤリングをくれたので、私からはピアスをおくった。三ヶ月遅れのプレゼントだ。彼女は顔いっぱいに喜びを浮かべ、その場で身につけてみせた。とても似合っていた。私たちはふたりそろってセンスがよい。

 適応障害に苦しんだ初夏をも含め、私はいつだって彼女に会えたなら嬉しがったはずだが、私の文章にあらわれる暗澹たる態度はしかし、思慮深い彼女を遠ざけたらしい。無理もない。健康なときさえ、「会ってみると、書くものから予想していたより、ずっとやわらかくて話しやすい」とは言われ慣れている。私にかぎらず、だれもが「ほんの一面」の集積だ。それにしても恋人は、私を隣に置いて、よくめまいを起こさないものだ。一日のうちに、軽口を叩き、疑似科学の喧伝に憤り、戦争におびえ、空気を含んだ羽が生えたみたいに小躍りする。

サボテン

 自宅の近所に、いまどきの都市部にはめずらしく、古い平家が三軒隣りあっていた。今月の半ばごろから、取り壊しが着々と進んでいる。両端は長いこと空き家となっており、中央の、最後の住人は春に亡くなった。当時、私は前職の研修で県外に出ており、外泊の許される土曜日まで、私の家族はその事実を伏せていた。葬儀には間に合わなかった。朝早くに連絡を受け、観光にくりだす同期生にかろうじて笑いかけ、声をあげて泣ける場所を探して歩きまわったのを覚えている。

 その人を仮に只野さんとしよう。只野さん邸の庭は四季を通じて緑色をまとっていた。花より草が目立ち、どれも手入れが行き届いてた。盆栽の鉢は家族が持ち帰ったらしいが、大人の背丈ほどもあるサボテンだけは抜けなかったのだろう。おとずれるものは虫と野良猫だけになった土壌で、ますます太ってゆくようだった。紅色の花がひらいた日、私は祖母とともにはしゃいだ。

 それも今月の半ばごろまでの話だ。週末、デートから帰ると、サボテンの姿がない。かつての庭は取り外した浴槽や便器の仮置き場になったのだ。いずれこうなることも、そうするほかないこともわかっていた。とはいえ、穴の塞がらないようなこころもちは、どうしようもない。その夜は風呂を熱めに沸かした。

子供の領分

 春から会社員になり、そろそろ引越しも考えはじめました。新しい生活に慣れるまでピアノはお休みします。と、発表会にて司会が読み上げる挨拶文を書き出した。虚偽の申告をしてはいないが、情報がいちじるしく不足している。つまり、現在の私は会社員をしていない。おしゃべりな先生にはそのことを伝えなかった。

 二〇年前に私をレッスンに連れ出し、その後ももっとも熱心な聴き手でありつづけた心配性の祖母にも、無職になったと話すわけにはゆくまい。同居しながら経歴を隠し通していることには、われながら感心する。さっさと白状すれば、白昼堂々、階下に押しかけて練習もできたのだけれど。祖母は今年も花束を渡しに来てくれるという。

 年の瀬、最後になるかもしれない舞台で弾くのは、いちばん好きなドビュッシーにしようと決めていた。小学生のころ楽譜を買い与えてもらった『子供の領分』から数曲。作者が溺愛する娘におくった小曲集だ。当時は、がむしゃらに鍵盤を叩くと、聴衆がほほえんだ。いまは違う。子供の領分に大人が踏み込むには、それなりの作法というものがある。速く、しかしあまり速くなく。タッチをやわらかく、芯はつよく。おどけて軽妙に、指先に神経を集中させて。あらゆる矛盾を抱擁した音楽に、私は幼い日から惚れこんだままである。