ひらログ

ひららかのブログ

子供の領分

 春から会社員になり、そろそろ引越しも考えはじめました。新しい生活に慣れるまでピアノはお休みします。と、発表会にて司会が読み上げる挨拶文を書き出した。虚偽の申告をしてはいないが、情報がいちじるしく不足している。つまり、現在の私は会社員をしていない。おしゃべりな先生にはそのことを伝えなかった。

 二〇年前に私をレッスンに連れ出し、その後ももっとも熱心な聴き手でありつづけた心配性の祖母にも、無職になったと話すわけにはゆくまい。同居しながら経歴を隠し通していることには、われながら感心する。さっさと白状すれば、白昼堂々、階下に押しかけて練習もできたのだけれど。祖母は今年も花束を渡しに来てくれるという。

 年の瀬、最後になるかもしれない舞台で弾くのは、いちばん好きなドビュッシーにしようと決めていた。小学生のころ楽譜を買い与えてもらった『子供の領分』から数曲。作者が溺愛する娘におくった小曲集だ。当時は、がむしゃらに鍵盤を叩くと、聴衆がほほえんだ。いまは違う。子供の領分に大人が踏み込むには、それなりの作法というものがある。速く、しかしあまり速くなく。タッチをやわらかく、芯はつよく。おどけて軽妙に、指先に神経を集中させて。あらゆる矛盾を抱擁した音楽に、私は幼い日から惚れこんだままである。

退職

 今月某日をもって退職する。この期日については、経歴に休職期間が含まれないよう人事部が取り計らってくれた。私の体調を気遣うことばを最後に、通話は終了した。ほんとうによい会社だと思う。

 郵送する退職願は書き上がったが、添え状を作成する気は起こらない。非常識にも突如として去りゆくものが、常識的書式にならってシュレッダーの作業を増やしたところで、なんになろう。他人の心情の機微を読みとれない私が社会的地位の相対的に高い人々からかわいがられたのは、ひとつには、少なくとも形式に対しては従順であったからだ。しかし、いまとなっては、どれほどうやうやしい挨拶も、行為と矛盾する。恥ずかしさで息がつまりそうなほどしらじらしくて、謝罪と礼を述べる手紙など同封できそうもない。

 入社後半年あまりで組織をぬけだす私がもたらしたものは、莫大な教育コスト、煩雑な事務手続き、期待と同量の失望、といったところだろう。さりとて、利己的な性分ゆえ、刑期満了前に出獄の日を迎えた感慨で胸を満たすばかりである。これまでに、仕事を楽しむことはおろか、仕事をこなして余力を残すことさえなかった。会社員としての、規則正しい反復からなる生活は、永劫のシャトルランに似ていた。はやばやと打ち切る。

アルバムリリースによせて

 最愛の宇宙人、ウール・プールによるはじめてのアルバムが、きょうリリースされた。聴けば、彼の曲だということも、彼がなにによろめき、ひかれるのかも、私には手に取るようにわかる。そういう純度の高い楽曲で編まれているのだ。つくるのが好きでしかたなくて、曲をつくらずにはいられない人だから。

 音楽やことばに救われた経験はあるが、他人を救ってやるというつもりで発せられた音声や文字というものを私は信頼しない。私はかつて彼に抱き起こされたおかげで、いまもかろうじて直立しているという気がしなくもないが、彼には私の歩行を支援した記憶などないのだろう。彼の作品も同じように、ふらふらとひとり歩きして、どこかでだれかを上機嫌にしたり嫉妬させたり、まどろみへ導いたりするのではないか。

 話はよりあからさまにアルバムから逸れる。彼を知るまで、私はおどけたまねをしないほうだった。思いを確かめあったばかりのころも、まだこわばっていたはずだ。だから、しばらくは、ウインクや、髪をかきあげて恰好つけるしぐさなんて、とうていできなかった。人前で口を大きく開けて笑うことさえまれだった。私は私のことが気に入らなかったから、私を他人たちにひらいてみせることも避けていたのだ。

 彼は、私自身には過剰なものとしか見えず、うとまれていた私の特質を、みな好きだと言った。かすれた低い声、八重歯、外斜視、たくましい骨格と贅肉、それに、ことばへの感じやすさや、考え込み、思いつめるところまで。あるとき、私が私でよかった、とも言った。その瞬間はいっしんに祝福を浴びたようだった。あなたがあなたでよかった、と私は思う。

 つまり、光の当たらない場所に、うつくしいところを見出すのがじょうずな彼なのである。ある日曜日、私たちは、楽器店にて聴音の問題を出しあった。彼の出題する和音──新曲に使ったとかいう音の排列は、奇想天外で、ぶつかって濁り、けれど、どこか洒脱でおおらかだ。

 私は耳をすますが、何度くりかえしても、全体像がつかめない。そこで、しぶしぶ解答の開示を求め、手もとをのぞきこむ。あらためて驚く。そんなのわかりっこない、とほとんど笑い転げそうになる。よく見知った六一鍵とか八八鍵とは別の楽器が踊りだしたかのような、それでいてなつかしい響きを、彼の指は紡ぎだす。

 ウール・プールのムーン。とびきりかわいくふしぎな音楽家による、とびきりかわいくふしぎな曲集が産まれた。

わからない

 プログラミングの勉強がはかどらない。一段落してからこれを書こうかとも考えたが、たまりかねて、吐きだす。湧きあがることばたちを内にとどめたまま、新しい概念に接して、解きほぐしたうえで摂取するという大仕事にいそしめるほど、私は器用ではない。

 私はプログラミングがよくできるほうではない。のみこみは遅いし、頻繁につまずく。今後とも「センスがある」と評される機会には恵まれないだろう。それでも、できるまでやってやる、と信じ込んでいられることだけが、私の才能、あるいは酔狂なる性質として、燃え残っているという感じがする。こんなにもわからないことだらけなのに、おもしろいからかじりついている。

 わからないことに対して(比喩ではなく)熱くなるのはずいぶんひさしぶりだ。卒業論文を書いていたころは、しょっちゅうこの感覚にさいなまれた。鼓動が指先までふるわせ、胸とも背中とも喉ともつかない内側のほうがほてり、目の奥が焼き切れそうな気がしてくる。

 「英文が読め、精緻な日本語が話せ、具体と抽象を往き来でき、怠惰であるなら、優秀なエンジニアになれる」とまさに優秀なエンジニアであるところの友人はかつて言い、そのことが私に火をつけたのだと思う。

赤の食卓

 保守論壇の月刊誌で埋め尽くされた書棚の鎮座するリビングにて夕食をとるとき、実家を出るべきだという考えは生理的欲求にも似てきて、単に生活の手段として就職を選んだのは不誠実きわまりない失策であったが、いちどはそうせざるをえなかったのだから、無駄とはいわない、必然であった、とぼんやり思う。

 問題は、とうにはじき出された結論を実行に移さず、古びた家にとどまりつづける暮らしぶりである。現在の私は、ほんとうのところつづけたかった学生でも、せねばならないと決めたはずの会社員でもない。みずから懇願し、余白に放り出され、健康と豊かさを取り戻したのだ。ただし収入は途絶えた。

 よく目立つ表紙の真っ赤な太字、隣国への罵詈雑言を見やりつつも、滞りなく「ごちそうさまでした」を発するようになった自身がそらおそろしい。著者や読者には「正しきものならばなにを言われても傷つかぬはずなのだから、われわれの〈言論の自由〉を妨げるな」と主張するものがある。恥ずべき誤りだ。私たちが手にするのは、他人から踏みにじられない権利と他人を踏みにじらない義務のみである。だれにも他人を踏みにじる権利はない。他人から踏みにじられたものに、黙って耐えたり、笑い飛ばしたり、毅然と立ち向かったりする義務はない。